桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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自殺防止に向けてカンロくん

はじめに



眼に見えない世界がある


スペースシャトルによる宇宙ステーションの建設をはじめ、分子、原子と同レベルでの加工技術として、その無限の可能性に期待が寄せられているナノテクノロジー(注1)の応用など、科学技術の進歩は止まるところを知りません。

眼に見えるこの現象世界は、お釈迦様や弘法大師様(お大師様)(注2)の時代と比べ、まさに隔世の感があると言えましょう。

しかし、ナノテクノロジーの分野を含めた眼に見える現象世界が、この世のすべてではありません。むしろ、眼に見える世界こそが、ほんのひとかけらの世界なのかも知れません。私達は、眼に見えるひとかけらの世界だけを見て、世界のすべてを見ていると錯覚してはいないでしょうか?

眼に見えない世界は、無限に広がる世界と言ってもいいでしょうが、見えない世界の存在など信じられないと仰るお方もおられると思います。

しかし、無限に広がる眼に見えない世界が存在するとすれば、眼に見える世界など、ナノテクノロジーの世界ほどの大きさもないでしょう。

普門法舟(ふもんほうしゅう)大菩薩様(菩薩様)(注3)は御在世中、「眼に見えない世界がある」と仰っておられましたが、後述する様に、小指で富士山を持ち上げると言われる神通力を得られ、目に見えない世界に生き続けておられるからこそ、まだ湧出していない地下水をコップに溜める等という、眼に見える世界では絶対に不可能な不可思議を現わす事も自由自在に出来るのではないかと思います。

私達が、高野山法徳寺(たかのやまほうとくじ)の開創までにたどらせて頂いた十四年間、そして開創から今日までの歳月の中で得た確信は、「眼に見えない世界は確かに存在する。菩薩様は、生き仏様となって今も生き続けておられる」というこの一事に尽きると言ってもいいでしょう。


変わらない人間の本質


いくら科学技術がめざましい発展を遂げても、変わらないものがあります。それは、人間そのものの本質です。

科学技術が日進月歩で発展しているにも拘らず、わが国の自殺者が十年も続けて三万人を超え、さらに増え続けている現実は、私達に何を教えているのでしょうか?

いくら科学技術が進歩し、不可能と云われていた事が実現する時代が到来しても、変わったのは眼に見える現象世界だけであって、悩み苦しむ存在としての人間の本質そのものは、お釈迦様の時代と全く変わっていないという事実です。

お釈迦様が説かれた四苦八苦(注4)の教えは、決して過去の遺物でもなければ、死に絶えた教えでもありません。四苦八苦の人生は、今も私達の目の前に厳然と存在し、人間の本質は何も変わっていない事を私たちに問い続けているのです。

人類史上、悩み苦しむ人々を救わんがため、お釈迦様やお大師様をはじめ、先覚者と言われる方々が次々とこの世へ出られたのは、決して偶然ではなく、まさに時代の要請であり、乱れた世が、お釈迦様やお大師様を求めた結果に他なりません。


伝えるべきか否か


このホームページを開設するに当たり、最後まで悩んだ事が一つあります。

それは、私たちが今まで体験してきた、科学技術では到底解明出来ないであろうと思われる不思議な出来事や、お計らいを悟って初めて明らかになる神秘な出来事を、ありのまま伝えるべきか否かという事です。

何故なら、受け止め方によっては、信仰に対する偏見や誤った先入観を与えてしまい、救いの芽を摘んでしまうばかりか、仏法に対する誤解を助長してしまう恐れがあるからです。

例えば、『汗露水の扉』でお話する、「地下水掘削と同時に、洗面台の歯ブラシ立てやコップに深さ一センチ程の水が溜まり始め、それが二十一回にも及んだという話」や、「生き仏様の通力の話」、或いは「悟って初めてその真相が明らかになるお計らいの話」などは、実際にそれを体験し、真相を悟った者でなければ容易に信じられないでしょう。

現にこの不可思議な出来事を同行誌『救済』に掲載したところ、読まれた方の中には、「そんな事は有り得ない。作り話だ」と言って、端から信じようとしなかったお方もおられます。

これから、このホームページをご覧になる皆さんの中にも、「そんな荒唐無稽な話は信じられない。作り話だろう」と、疑いの眼を向けられる方もおられるだろうと思いますが、私達が危惧したのは、自らの知識や体験を超えた出来事に直面した時、人は、それに対し本能的に眼を背け、心を閉ざしてしまうばかりか、「そんな話は全て眉唾だ。信じられない」という先入観を与えてしまうおそれがある事です。

これでは、苦しむ人々を救済したいと願っておられるお大師様、菩薩様のみ心に反する結果を招いてしまう事になります。

しかし、お大師様、菩薩様が不可思議を現わしておられるのは、そうする事が人々を救済する上で必要だからであり、それを私達の判断でお伝えしないことは、また別の意味で衆生救済を妨げる事にはならないかという心配もあり、中々結論が出せませんでした。

最後まで悩んだ末、私達は、やはり今まで体験してきた出来事を、出来るだけありのままお伝えする事にしました。そう決意させたのは、一人の御住職の言葉でした。


あなたがうらやましい


以前、知り合いの御住職から、「あなたがうらやましい」と言われた事があります。

当時、癌を患っておられた御住職は、心の安らぎを求めて私の元を尋ねられたのですが、私は、今まで自分が体験してきた不可思議な出来事についてお話しながら、「見えない世界は間違いなくございます。お大師様も生きておられます。どうか、見えない世界を信じて下さい。お大師様の救いを信じて下さい」とお話したところ、「あなたがうらやましい」と仰ったのです。

「何故ですか」とお尋ねすると、「私は長年、住職をしてきましたが、あなたのように不思議な体験をした事が一度もないのです。だから見えない世界があると言われても、お大師様が生きておられると言われても、素直に信じられないのです。数々の不思議な体験をしておられるあなたがうらやましい」と、悲しげな表情で言われたのです。

「不思議な体験をした事が一度もない」という言葉は、私にとって、思いもよらぬ言葉でした。何故なら、それまで、このような体験をしているのは私達だけではないと思っていたからです。

誰も彼もが、神秘体験をしているのではないと知った私は、改めて生き仏様に深い仏縁を頂く幸せを痛感すると共に、一人でも多くの皆さんに、同じような体験をして欲しいと思ったのです。

何故なら、神秘体験は、私達の価値観、人生観、世界観、死生観を根底から変える力を持っているからです。

もしその御住職が一度でもいいから、神秘体験をしておられたら、もっと違った人生観を持って、残された生涯を心安らかに生きていかれたに違いないと思うと、残念でなりませんが、その御住職の言葉があったからこそ、一人でも多くの人々に、神秘体験をして欲しいと思うようになった事も事実であり、今は一人でも多くの人に神秘体験をして欲しいと願わずにはいられません。

特に次代をになう多くの若者には、是非、神秘体験をして、肉眼に見える現象世界の裏に秘められた、無限に広がる見えない世界に触れて欲しいと思います。

夢も希望も持てないと嘆く若者が多い今の世の中だからこそ、そう願わずにはいられないのです。


事実は小説より奇なり


「事実は小説より奇なり」(注5)と言われるように、この世界は、私たちの知恵や知識を遥かに超えた、神秘不可思議としか言いようのない出来事で満ち満ちています。

しかし、残念ながら、一部の人を除いて、ほとんどの人は、日々の生活や仕事に追われ、神秘体験に触れる機会がありません。それは譬えれば、見えない金銀財宝に包まれていながら、それを知らずに生きているのと同じです。

神秘体験に触れる機会がないのには、もう一つ理由があります。

それは、「不思議な体験をした事が一度もない」という御住職の言葉に象徴されるように、神秘体験は、しようと思って出来る体験ではないからです。

何故かと言えば、神秘体験は、悟り(仏法)と一体のものであり、悟りの裏付けがあって、初めて神秘体験の世界も開かれるのですが、悟りそのものが、悟ろうと思っても得られるものではないからです。


悟りの裏に仏行あり


よく御同行(注6)の皆さんから「どうしたら悟れるようになるのですか?」と尋ねられる事がありますが、悟りについて、菩薩様は、次の様に仰っておられました。

以前、一人のお医者さんが菩薩様の話に大変興味を持たれ、「どうしたら真理を悟れるのですか?」と尋ねられた事があります。その時、菩薩様はこう仰いました。

真理というものは、悟ろうと思っても悟れるものではありません。ただ毎日、水に手を合わせ、食物に手を合わせ、緑に手を合わせ、花に手を合わせ、太陽に手を合わせ、森羅万象全てに手を合わせていると、自ずと真理が分かってきます

「悟りというものは、悟ろうと思って悟れるものではない。しかし、悟ろうと思わなくても悟らせて頂けるものである」とは、いかにも逆説的な言い方ですが、それが真実なのです。

何故なら、私達もまた、何かを悟ろうと思って悟っている訳ではないからです。でも、必要な時には、必要な事だけは、ちゃんと悟らせて頂けるのです。

ですから、「どうすれば悟れるのですか?」と問われても、「悟る秘訣は何もありません」とお答えするしかありません。自分の意志で悟っている訳ではありませんから、秘訣などあろう筈がありません。

しかし、悟らせて頂く上で、欠かしてはならない事が一つあります。それは、菩薩様の仰る「毎日、水に手を合わせ、食物に手を合わせ、緑に手を合わせ、花に手を合わせ、太陽に手を合わせ、森羅万象全てに手を合わせる」日々の仏行の実践です。

つまり、日頃から仏縁(信仰)を深くし、森羅万象全てに感謝の心を捧げ、どんな些細な事でも深く感じ取れる磨きぬかれた心と、物事の裏に隠された見えぬ世界(この世の真相)を観る眼を養っておくという事です。

そうすれば、悟ろうと思わなくても、必要な時には必ず悟らせて頂けるようになり、神秘体験をしようと思わなくても、させて頂けるようになるのです。

そして、今まで見えていなかった世界が見えてくるようになった瞬間、皆さんの人生は、天地が逆転するほど変っていく筈です。

何故なら、今まで無駄だと思っていた事、目を背けていた悩みや苦しみ、更には日常の些細な出来事さえもが、すべて意味を持ったものとして輝きはじめ、それら全てに感謝せずにはいられなくなってくるからです。

古歌に、
  いっぱいの 飲みたる水の味わいを
    問う人あらば 何と答えん
 と詠われているように、その感動は、体験した者でなければ分りません。

だからこそ、一人でも多くの皆さんに、その感動を体験して欲しいのです。その為に必要な事は、出来る限り、皆さんにお伝えしていきたいと考えています。


真の神秘体験とは


世間には、神秘体験と聞くと、体が浮上したり、見えない霊が見えたり、まるで私達の日常生活とかけ離れた超常現象か何かのように思われる方がいますが、それは、悟りの裏付けのない霊感、霊能、霊格者の言う偽りの神秘体験であって、ここに言う真実の神秘体験ではありません。

ここに言う真実の神秘体験、不思議体験とは、ごくありふれた日常生活の裏側に隠されている物事の真相を、悟りによって紐解いていく事であり、仏法(悟り)に裏付けられた神秘体験です。

つまり、お大師様が、「医王の目には途(みち)に触れてみな薬なり。解宝の人は砿石(こうせき)を宝と見る。知ると知らざると何誰(たれ)が罪過(ざいか)ぞ」(注7)と説いておられるように、肉眼で見る事が出来る様々な現象やお計らいの裏側に隠された世界の真の姿(真相)を、悟りの眼で明らかにしていく事です。

ですから、神秘体験をしたからと言って、外見は何も変わりません。しかし、その内面は、天地が逆転するほど変っているのです。

何故なら、神秘体験をするまでは、ただ無駄で無意味にしか見えなかった苦しみや悲しみや失敗や挫折という人生の様々な試練が、全て神仏のお計らいとして、意味のあるものに生まれ変わっているからです。

この世に、無駄で無意味な苦しみも悲しみも失敗も挫折もありません。それらが無駄で無意味に見えるのは、この世の真相(神仏のみ心)に触れていないからであり、悟りの眼がまだ開けていないからです。

その真相は、悟って初めて見えてくる世界であり、神秘体験の扉が開くか否かは、ひとえに悟りの眼を持てるか否かにかかっているのです。


何を見て何を観ていないか


インターネット網が世界中にはりめぐらされ、あらゆる情報が居ながらにして瞬時に飛び込んでくる今の時代、私達は、もはや情報なしに生きる事など不可能と言わなければなりません。

しかし、だからこそ、私たちは、氾濫する情報に振り回される事なく、何を見て、何を観ていないか、何を観なければいけないかを、しっかり見極めなければいけないのです。

眼に見える物をこの肉眼で見る事が、見る事の本質ではありません。見るとは、心の眼で観る事であり、心で観じとる事です。

移り変わる現象世界を見るのは肉眼ですが、移り変わりゆく現象世界の背後に潜む真理の声に耳を傾け、観じとるのは、心の眼であり、観の眼です。悟りの眼と言ってもいいでしょう。

観世音菩薩(観自在菩薩)と名付けられた仏様を、皆さんもよく御存知だと思いますが、この仏様はその名の通り、観の眼を持って、あらゆる真理を見通しておられるお方です。

いま私達が見失っているものがあるとすれば、それは観世音菩薩様が持っておられる観の眼ではないでしょうか。一生に一度でいいから、皆さんに神秘体験をして欲しいと言ったのは、この観の眼を持って頂きたいからです。

菩薩様が御入定なさってから法徳寺開創までにたどってきた十四年間、そして開創から今日までの道のりの中で私達が常に心がけてきた事は、観の眼を磨きながら、観の眼で物事の真相を観ることでした。

それは取りも直さず、生き仏であるお大師様、菩薩様の声なき声を心の耳で聞き、心の眼で観じながら歩む事でもありました。

どこまでその志が実現出来たかは分りませんが、法徳寺の開創や、汗露水の湧出となって結実した事実を見る限り、歩んできた道のりは決して間違っていなかったと確信しています。

今日御縁があって当山へお参り下さった皆様が、一人でも二人でも、このホームページを通して、今まで何を見て、何を観ていなかったのかを考える奇縁として下さり、皆様のかけがえのない人生に、生きる喜びと救いの光明をもたらすささやかな一助となるならば、これにまさる喜びはありません。

どうぞ心ゆくまでごゆっくりお参り下さい。

南無大師遍照金剛
 南無普門法舟大菩薩

合掌

平成21(2009)年3月7日

宗教成合の郷  
  高野山法徳寺

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法徳寺の草花と自然

ソメイヨシノ

ソメイヨシノ(染井吉野)
(花言葉 純潔)

 

 

(注1)分子、原子と同じレベルで物質を加工し新しい素材や製品を作り出す技術で、いま様々な分野への応用が期待されている。人間の臓器と同じ働きをする人工臓器や、人間の体に入って治療を行なう超小型ロボットの開発、僅かな電力で動く超小型コンピューターや小型で高性能な燃料電池の製造、更には現在人類が直面している環境破壊や温暖化、食料やエネルギー不足の解消、難病の治療など様々な分野に応用出来る夢の技術として各国が研究開発に力を入れている。

(注2)大師号を賜わった御上人様は沢山おられますが、「太閤は秀吉に取られ、大師は弘法に取られ」と言われるように、昔からお大師様と言えば、弘法大師空海御上人様の事を指します。

(注3)悩み苦しむ多くの人々より「弘法大師様と不二一体の生き仏様」と慕われる高野山法徳寺の御本尊

 

 

 

 

 

(注4)四苦八苦とは、生老病死の四苦に、愛別離苦(あいべつりく・愛する人と別れなければならない苦しみ)、怨憎会苦(おんぞうえく・会いたくない人と会わなければならない苦しみ)、求不得苦(ぐふとっく・欲しても思うように得られない苦しみ)、五陰盛苦(ごおんじょうく・様々な欲望に縛られて生きなければならない苦しみ)を加えたもので、私達の人生は、苦そのものであると説かれた教え。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注5)イギリスの詩人バイロン作「ドン・ジュアン」の中にある言葉。世の中で実際に起こる出来事は、架空の小説よりも不思議であるという意味。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注6)四国八十八ヶ所霊場を廻るお遍路さんが身に付けている笈摺(おいずる)の背中や菅笠に書かれているのが、「同行二人(どうぎょうににん)」という言葉ですが、「同行二人」とは、お大師様と共に四国霊場をお参りさせて頂くという意味です。苦楽を共にして下さるお大師様の事を「ご同行」と言いますが、お大師様だけがご同行ではなく、極楽を目指して修行の旅をしている人々は、みな御同行です。ですから、夫も妻も親も子も兄弟姉妹も他人同士も、お互いがご同行なのです。
信者と誤解される方もおられますが、ご同行は、信者ではありません。法徳寺には、ご同行の皆様はおられても、信者さんは一人もいません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

(注7)お大師様が書かれた『般若心経秘鍵』の中に出てくる言葉で、「名医は雑草を薬と見、宝を見る眼を持つ人は、ただの砿石の中から宝物を発見するように、ごくありふれた日常の出来事であっても、悟りの眼を持つ人が観れば、神仏のみ心が隠された秘密の教えとなる」という意味。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千手観世音菩薩

 

 

 

 

 

 

 


高野山法徳寺(たかのやまほうとくじ) TEL:0551-20-6250 Mailはこちらから
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