桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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心安らかに生きる為に(5)



分別心を離れよー吉祥天と黒闇天


二つ目の修行は、分別心を離れる修行です。分別心についても、こんな面白い話があります。

或る日、一軒の家に、美しい女性が訪ねてきたので、家人が「どなたですか?」と尋ねると、「私は吉祥天と言う福の神です。お宅に福を授けにまいりました」と言ったので、家人は大喜びし、「それは有り難いことです。どうぞ中へお入りください」と言って、吉祥天を招き入れました。

すると、その後から、見すぼらしい姿をした女性が入って来ようとするので、「あなたはどなたですか?」と尋ねると、「私は黒闇天という疫病神です」と言ったので、家人は、「疫病神に入ってもらっては困ります。どうかすぐにお帰り下さい」と言って追い出そうとしました。

すると、黒闇天は大笑いして、「先ほど入っていった吉祥天は私の姉です。私たちは姉妹で、どこへ行くにもいつも一緒なのです。もし私を追い出せば、姉の吉祥天も出ていかなければなりません」と言って、黒闇天を追い出したら、折角入って下さった吉祥天も一緒に出て行かれたというのです。

何故この家人が黒闇天を家の中に迎えられなかったのかと言えば、疫病神は自分にとって不都合だという分別心が働いたからです。

人間は、好都合と不都合を分別して、福は好都合、災厄は不都合と色分けしますが、「吉凶禍福はあざなえる縄の如し」と言われるように、吉凶は、表裏一体ですから、吉祥天だけを招きたいと思っても、その裏には常に黒闇天が一緒に付いてくるのです。

もし福の神を招きたければ、妹の黒闇天も一緒に招く以外に道はありません。


維摩居士の病気見舞い


在家の身でありながらお釈迦様の弟子たちも太刀打ちできないほどの智慧を持つ在家の信者・維摩居士を主人公にした『維摩経』にも、分別心を離れることの大切さが説かれています。

或る日、維摩居士が病気になります。病気と言っても肉体の病気ではなく、苦しむ衆生を救わずにはいられない大悲の疾いなのですが、お釈迦様は、それを承知で、弟子たちに「誰か、維摩居士の病気見舞いに行ってくれませんか?」と尋ねました。

しかし、見舞いに行こうと申し出る弟子は一人もいません。何故なら、以前維摩居士から、修行の在り方や説法の内容について、やり込められた経験があるため、見舞いに行けば、また同じ目に逢うのではないかと思い、行きたくても行けないのです。

釈迦十大弟子の中で「智慧第一」と言われる舎利弗(しゃりほつ)は、悟りを開くには心を鎮めて瞑想するのが最も優れた修行だと信じていたので、座禅して静かに瞑想していると、そこへ維摩居士が通りかかり、「舎利弗さん、何をしているのですか?本当の坐禅とは、ただ一人座って瞑想する事ではありませんよ。本当の座禅は、日常生活の中にあるのですよ」と諭された経験があり、素直に「病気見舞いに行きます」とは答えられないのです。

また「論議第一」と言われた迦栴廷(かせんねん)や、その他の弟子たちも、舎利弗と同様、維摩居士にやり込められた経験があるため、「そのようなお方のお見舞いはとても荷が重すぎます」と言って、みんな病気見舞いに行こうとしません。

そこで、お釈迦様は、文殊菩薩を名代として見舞いに行かせることにしたのですが、文殊菩薩が訪ねていくと、維摩居士は、「文殊菩薩、よく来てくれました。去るものにも来るものにも執着することなく、また見るものにこだわることなく、在るがままを観ずる不動の境地におられる文殊菩薩に来ていただいて、有り難く思います」と言って、礼を言います。

文殊菩薩が、「丁重にお見舞いするようにというお釈迦様の心遣いを伝えるため、私が代表してお見舞いにまいりました。ところで、居士の病の原因は何ですか?」と尋ねると、維摩居士は、「愚痴により道に迷い、愛着のために病は生じます。世間の人々が執着のために道に迷い、病んでいるために私も病むのです。人々の病が消滅すれば、私の病も消滅します。菩薩道を歩む者は、人々をこの愚痴から救い出すために生死の輪廻の世界へ生まれてきました。生や死にこだわれば病になります。人々が生死の病から離れることができれば、菩薩もまた病を離れられます。子供が病気になれば、両親も病むようなものです。その病気の原因は何かと言われれば、菩薩道を歩む者の病とは、大悲のもたらすものです」と答えるのですが、維摩居士はここで、「病気の原因は二つある」と言っています。

一つは、煩悩から来る分別と執着(愛着)、もう一つは、衆生を救いたいという大慈悲心で、菩薩は、衆生を救わずにはいられないという大慈悲心に病むのですが、代苦者となられた菩薩様も、同じ境地を詠まれた道歌をいくつも残しておられます。

代苦者と なりて衆生の苦を背負う
   これぞ菩薩の 悲願なりけり
 衆苦をば 背負う病の身なれど
   己が心を 知る人ぞなし
 人思い 汝が疾めばわれも疾む
   われ疾むゆえに 汝疾むなり


舎利弗尊者と花びら


この後、舎利弗尊者が、凡夫の病の原因である煩悩(分別と執着)について天女に諭されますが、六道(迷いの世界)の中の天上界に住む天女は、お釈迦様の弟子の中の最高位である阿羅漢となった舎利弗よりも低い位にいますから、本来なら、上の位にいる舎利弗が天女から諭される筈がありません。

ところが、天女は仮の姿で、本当の正体は、人々を救う為に姿を変えた菩薩なので、阿羅漢に過ぎない舎利弗は、天女の前にたじたじとなってしまいます。

この菩薩は、いつでも維摩居士の教えが聞けるようにと、以前から天女に姿を変えて維摩居士の家に住み着いていたのですが、文殊菩薩と維摩居士の問答を聞いて感動し、天空から蓮の花びらを撒いたのです。

ところが、この時、不思議な事が起こります。

撒かれた花びらは、文殊菩薩や維摩居士の体には一枚も付着せず、そのまま地面に落ちていくのに、舎利弗をはじめとするお釈迦様の弟子たちには、体に付着して離れないのです。

文殊菩薩や維摩居士に付着しなかった花びらが、自分たちの体に付着し、どんどん増えていくため、舎利弗たちは花びらを振り落とそうと焦り始めます。その光景を見ていた天女が、笑いながらこう尋ねるのです。

天女─舎利弗尊者、いかがなさいましたか?
 舎利弗─いや、この花びらがくっついて離れないのです。
 天女─なぜ、花びらを振り落とそうとなさるのですか?
 舎利弗─出家者に花びらは相応しくありません。出家者は身を飾ってはいけないのです。
 天女─舎利弗尊者、それはおかしいですね。
 舎利弗─なぜですか。出家者は身を飾らぬのが戒律です。
 天女─舎利弗尊者、この花びらは花びらに見えますが、真理そのものなのです。飾りではありません。
 舎利弗─この花びらが真理そのもの?
 天女─そうです。この花びらは真理そのものです。花びらは、あなたにくっつこうなどとは考えていません。ただ在るように在るだけです。
 舎利弗尊者、あなたの方が「この花びらは出家者に相応しいか相応しくないか」などと分別をしているだけなのです。
 あなたたちが、勝手に良し悪しを判断しているから、花びらがくっつくのです。
ただ在るがままに在るだけの世界を勝手に判断し、勝手に分類し区別することを、分別といいます。
 分別は妄想です。したがって、分別は真理から外れた行為です。そんな分別は捨てるべきです。見てごらんなさい。分別を捨て去った菩薩には花びらはつきませんよ。
 花びらだけではありません。恐怖は、ありもしない不安を抱えている人につくものであり、苦しみを恐れる人ほど快楽におぼれます。
 分別から離れれば、美しいも醜いもなく、恐怖も安心もなく、苦も快楽もなく、おいしいもまずいもありません。すべては平等です。
 すべてを受け入れられれば、何の禍も恐怖もありません。
 この花びらは、物事を在るがままに見られず、分別し、執着する人にくっつき離れないのです。
 分別を去り、在るがままに物事を見ることができる人には、くっつかないのです。


欲も苦もなく我もなし


こう言って天女に姿を変えた菩薩は、あれこれと分別している舎利弗を諭し、分別や執着から離れる事の大切さを説いたのですが、分別するという事は、自分の立場から好都合と不都合を区別し、好ましくないものを否定し排除することです。

それに対し、悟りの世界は、在るがままの世界ですから、あれが良い、これが悪いというような分別が一切ありません。

そこにあるのは、苦もなければ楽もなく、生もなければ死もなく、一切を超越した世界です。

菩薩様が、
  生死なく 欲も苦もなく我もなく
    無常悟れば 涅槃に帰る
 と詠っておられるように、分別を離れた世界には、一切の執着がありませんから、病んでいても、どんな不都合な状況にあっても、そのままが極楽の世界となるのです。

合掌


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