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法徳寺のパワースポット(4)~光に包まれた汗露水(1)~不思議、不思議、不思議…平成17年4月13日、高野山法徳寺の根本経典とも言うべき御法歌(みのりうた)『頼め彼岸へ法のふね』を刻んだ四十九基の歌碑(うたひ)の開眼法要と、夢殿の周囲を廻る「四国八十八ヵ所霊場お砂踏み回廊」の開創式が盛大に営まれましたが、それから4ヶ月余り後の平成17年8月早々、地下水の掘削に着手したところ、不思議な事が起こりました。 高野山法徳寺が開創された若神子(わかみこ)の聖地は八ヶ岳の南麓に位置し、その地下には八ヶ岳を源流とするとても美味しい伏流水が流れているという話を前々から聞いていたので、お参りの皆様に飲んで頂きたいと思い、地下水の掘削を決意しました。 ところが、掘削に着手して間もなく、庫裏にある二台の洗面台の内、向かって左側の洗面台に置いてある歯ブラシ立ての中に、深さ一センチ程の水が溜まり始めたのです。 最初は、家族の誰かが歯ブラシの水を切らずに立てておいたのだろうと、余り気にも留めていませんでしたが、8月初めと言えば、夏の暑い盛りです。毎日水を切らずに立てておいたとしても、それだけで一センチほども溜るとは考えられません。 8月22日の朝、四度目となる水が溜っていたので、一応家族全員に確かめたところ、当然の事ながら、歯ブラシの水はちゃんと切っているとの事でした。 状況から判断する限り、水道水が何らかのアクシデントによって入ったとしか考えられませんが、歯ブラシ立ては洗面台の棚の上に置いてあり、人の手を介さない限り、それより下方にある水道の蛇口から水が入る事はあり得ません。 まるで狐につままれたような話で、家族一同が不思議に思っていたところ、その二日後の24日の朝、再び五度目となる水が溜まっていました。 それまで歯ブラシ立てに溜った水は全部捨てていたのですが、どんな味がするのか一度いただいてみようと思い、24日の夕方に溜った六度目の水を家族全員でいただいたところ、今まで飲んだことのない味わいのお水でした。 無味無臭で口に優しく、心の芯まで癒されるような味わいのお水なのです。 その後で水道水をいただいたところ、その違いは明らかでした。塩素消毒されているからか、少し舌を刺す様な感じがしました。と言っても、若神子の水道水が美味しくない訳ではなく、地元でも美味しいと評判の水で、私達も毎日「美味しい、美味しい」と言いながら、いただいていたお水なのです。 ところが、歯ブラシ立てに溜ったお水をいただいた後では、水道水独特のカルキ臭さがどうしても鼻に付いてしまい、不味く感じるのです。それだけ溜ったお水の美味しさが際立っていた訳ですが、折角美味しいお水を頂くのだから、歯ブラシ立てに溜ったのを頂くのもどうかと思い、歯ブラシ立てのすぐ横に、グラスを置く事にしました。 グラスに蓋をして置いておいたところ、その日の夜に、七度目の水が溜ったのですが、今度は何と歯ブラシ立ての方ではなく、蓋をしたグラスの方に溜っていたのです。 その時の驚きと興奮は、とても言葉にはなりません。その後、水は、蓋をしたグラスの方に溜まり続け、歯ブラシ立てには二度と溜まりませんでした。 溜まった深さは、5ミリから1センチ程度で、それ以上は溜まりませんでしたが、水はその後もグラスに溜まり続けました。 しかし、9月14日に21回目となる水が溜まったのを最後に、全く溜まらなくなりました。 水の正体問題は、この水の正体ですが、この不可解な現象が、掘削に着手した直後から始まった事を考えれば、この水は、掘削中の伏流水と考える他はありません。 しかし、まだ湧いてもいない伏流水を、洗面台の棚の上に置いてある歯ブラシ立てに入れる事など、人間業では不可能です。 その不可能な事が現実に起こった以上、そこに、人間ならざる者の力が働いていると考えざるを得ません。 溜まった回数は21回、掘削した深さは113mに達しましたが、奇しくも、21はお大師様のご縁日、113は菩薩様のご縁日(13日)に通じる数字です。 この数字を偶然と見るか否かは意見の分かれるところでしょうが、様々な出来事の真相を悟る上で、ご縁日の数字というものは、非常に大きな意味を持っています。 例えば、開創の聖地が今の土地に決まったのは、この土地の話が、菩薩様のご縁日である平成12年12月13日に入ってきた事と無関係ではありません。 ですから、地下水掘削と同時に歯ブラシ立てに溜まり始めた今回の不可解な出来事も、お大師様、菩薩様がなさっておられるお計らいだと受け止める事に、何の違和感もありませんでした。 私の知る限り、この様な不可思議を現せるお方は、世界広しといえども、このお二人しかおられません。 菩薩様は常々、「仏の神通力を譬えれば、小指で富士山を持ち上げるようなものだ」と仰っておられましたが、生き仏となられたお大師様、菩薩様の神通力を以てすれば、まだ湧いていない地下水を歯ブラシ立てに溜めることなど、いとも容易いでしょう。 開かれた因縁を解く道今回の不可思議な出来事は、生き仏様のお力がいかなるものかを、まざまざと見せてくれただけでなく、思いも寄らぬお悟りをもたらしてくれました。 その詳細については、『汗露水の扉』の「不思議は世々に新たなり」をご覧頂きたいと思いますが、悟らなければならない事は、このお水の正体と、何の為にお授け下さったお水なのかという事でした。 水道水ではなく掘削中の地下水という事までは分りましたが、その後のお計らいによってこのお水は、ただの地下水ではなく、衆生の代苦者(身代り升地蔵尊)となられた菩薩様が流しておられる代受苦の御汗を意味する聖水である事が分ってきました。 このお水は「汗露水(かんろすい)」と名付けられましたが、何の為にお授け下さった聖水かというもう一つの疑問も、平成17年10月20日に帰郷され、13ヶ月間に亘り、法徳寺で私達と生活を共にしながら、御回廊廻りの行を続けられたご同行のFさんを通じて解かせて頂きました。 即ち、この聖水は、夢殿の御回廊廻りの行と相まって、私達が背負う因縁を解く為に授けられた聖水であり、平成17年春に催された四国八十八ヶ所お砂踏み回廊の開創式と四十九基の歌碑の開眼法要、その後に始まった地下水掘削工事と、それに平行して起きた摩訶不思議な現象、そして翌平成18年の汗露臺の落慶へと続く一連のお計らいは、すべて私達が背負う因縁を解く為の準備だった事が明らかになったのです。 光に包まれている汗露水汗露臺を施工して下さったS建築所の事務員Mさんが、法徳寺の境内が煌々と光り輝いているとおっしゃった事は、「法徳寺のパワースポット(2)」でご紹介しましたが、そのMさんが、汗露水についておっしゃった言葉が、今でも脳裏に焼きついて離れません。 このお水は、もの凄いお水です。言葉では上手く言い表せないんですけど、ただの地下水じゃないです。 Mさんが言われるように、それほど有り難いお水なら、一人でも多くの人に勧めたくなるのが人情ですが、Mさんは、「このお水だけは、誰も彼もに飲んで欲しくありません」と、全く逆の事をおっしゃったのです。 この言葉は、非常に重い言葉で、私自身、Mさんの言葉によって、うかうか心では頂けない聖水である事を肝に銘じると共に、汗露水と夢殿の御回廊廻りの行との関係について改めて深く考えさせられました。 二つの汗露水ご同行の皆様が、いま飲んでおられる汗露水は、二種類あります。 菩薩様の代受苦の御汗を意味する汗露水が二種類もあると聞くと、不思議に思われるかも知れませんが、これは、汗露水が、法徳寺へ帰郷された時にしかお授け頂けない聖水である事と深い関係があります。 先ほどもお話したように、ご同行のFさんを通じて、因縁を解く為には、夢殿の御回廊廻りの行と汗露水が欠かせない事を悟らせて頂きましたが、御回廊廻りと汗露水の両者は、因果(原因と結果)の関係にあります。 つまり、地下水が汗露水に変わる為には、夢殿の御回廊廻りの行が欠かせず、御回廊廻りの行の裏付けのないお水は、ただの地下水に過ぎません。 夢殿の御回廊廻りの行をして初めて、地下水が光り輝く汗露水に生まれ変わるのであり、御回廊廻りの行と汗露水は、原因と結果の関係にあるというのが、今まで私達が考えていた御回廊廻りの行と汗露水の関係でした。 しかし、それでは、夢殿の御回廊廻りの行は、法徳寺に帰郷した時にしか出来ませんし、汗露水も、法徳寺へ帰郷した時にしかお授け頂けません。 勿論、汗露水をお授け頂いて自宅に持ち帰る事は出来ますが、持ち帰る量にも限度があり、それもやがて無くなれば、次回の帰郷まで汗露水を頂けない事になり、因縁を解く行にも支障が出てきます。 そこで、菩薩様は、ご同行のKさんを通じて、自宅で汗露升に水道水を注いでお祀りし、心に念じて御回廊廻りの行をすれば、たとえ水道水であっても、光り輝く汗露水に変わる事をお示し下さいました。 詳細は、『法話の扉』「ご同行の体験談」の「帰郷こそが悟りの道」をご覧頂きたいと思いますが、Kさんは、お孫さんのピアノの発表会の前夜、娘さんご夫婦の家の二階から転げ落ち、右腕脱臼と骨折、右足甲を骨折する大怪我をされました。 それ以来、9年の長きに亘って、右腕の痛みをかかえながら暮らしてこられたのですが、平成21年9月の或る日、いつものように汗露升に水道水を注ぎ、身代り升地蔵菩薩様のご守護札の前にお供えして、心に念じながら御回廊廻りの行をしていると、升の右隅に光る雫が目に止ったので、行が終わってから、その雫を痛み続ける右腕につけられたのです。 次の日も、その次の日も升から水が漏れていたので、その雫を痛む右腕に付けられたところ、不思議な事に、3日ほどして右腕の痛みがすっかり取れていたのです。 9年間取れなかった右腕の痛みから解放されたKさんの喜びは想像に余りありますが、菩薩様は、Kさんの尊い体験を通じて、自宅の水道水であっても、心に念じて御回廊廻りの行をすれば汗露水に変わる事を、ハッキリご示現下さったのです。 光に包まれた汗露水こうして、自宅の水道水でも、御回廊廻りの行によって汗露水に変わる事が明らかになったのですが、法徳寺の汗露臺からお授け頂く汗露水はどうなのでしょうか? 夢殿の御回廊廻りの行の裏付けがなければ、やはりただの地下水に過ぎず、汗露水とはならないのでしょうか? その疑問に答えて下さったのが、先ほどのMさんの言葉です。 このお水は、もの凄いお水です。言葉では上手く言い表せないんですけど、ただの地下水じゃないです。 飲んだ時にハッとして、“何なの、このお水は”と言いたくなる様なお水です。光に包まれているというか、守られているというか、お水が光り輝いているんです。 「汗露臺でお授け頂いた汗露水は、光に包まれています」というMさんの言葉は、汗露臺から頂く汗露水は、ただの地下水ではなく、すでに光り輝いている汗露水であり、水道水から変わった汗露水とは根本的に違う事を、ハッキリ教えてくれているのです。 もし汗露臺からお授け頂くお水が、夢殿の御回廊廻りの行をしなければ汗露水に変わらないお水であれば、菩薩様がわざわざ地下水を掘削させる筈がありません。 何故なら、法徳寺には、地下水を掘削する以前から、既に水道水が来ていたからです。 もし水道水が御回廊廻りの行によって汗露水に変わるのであれば、水道水をそのまま使えばよく、わざわざ地下水を掘削させる必要はありません。 地下水を掘削させたのは、代受苦の御汗を意味する光り輝く汗露水を授けたいからであり、同じ汗露水でも、水道水から変わった汗露水とは根本的に違うからです。 汗露臺からお授け頂く汗露水は、最初から光り輝く正真正銘の汗露水であり、御回廊廻りの行をしなくても、汗露水として頂ける身代り升地蔵菩薩様の代受苦の御汗なのです。 汗露水に額ずく僧侶の群れその事は、大阪のご同行、F・Kさんが投稿して下さった体験談からも明らかです。 ある時、夢の中で、「汗露水」湧出の聖地を拝む御法嗣様の法衣が金色に輝き、大きなお姿になられたのです。 詳細は、「汗露水に額ずく僧侶の群れ」をご覧頂きたいと思いますが、法徳寺境内の地下から湧く汗露水の尊さを如実に物語る霊夢と言っていいでしょう。 何のための御回廊廻りか?もしそうだとすれば、「夢殿の御回廊廻りの行は何の為にするのか?法徳寺でする御回廊廻りの行と、自宅でする御回廊廻りの行は同じなのか、違うのか?」という新たな疑問が出てきます。 先ほどもお話したように、自宅の水道水を汗露水として頂く為には、自宅での御回廊廻りの行が欠かせません。 心に念じて御回廊廻りの行をして頂いたら、水道水であっても汗露水に変わる事を、ご同行のKさんが身を以て証明して下さいました。 汗露升から漏れた雫を右腕に付けたところ、9年間治らなかった右腕の痛みが3日程して消えて無くなった事実を見れば、水道水が汗露水に変わった事は間違いないでしょう。 しかし、Mさんによれば、汗露臺でお授け頂く汗露水は、Kさんが痛い右腕につけられた汗露水とは違い、御回廊廻りの行をするしないに拘らず、最初から光り輝いている汗露水(菩薩様の代受苦の御汗)なのです。 では、法徳寺でする夢殿の御回廊廻りの行は、何の為にするのでしょうか? 結論を言えば、何も目的にはしていません。夢殿の御回廊廻りの行は、何かを目的にしてする行ではありません。 強いて言えば、菩薩様のご苦労を思えば思うほど、させて頂かずにはおれない、已むに已まれぬ思いからさせて頂く御懺悔と報恩感謝の行と言う他はありません。 これは、「真心の施し」とよく似ています。 「真心の施し」について、菩薩様はよく「真心の施しというものは、結果を求めてするものではない。ご利益を求めたり、結果を期待したりする施しは、真心の施しではない」とおっしゃっておられましたが、まさにその通りで、真心の施しは、結果を当てにしてするものではありません。 ただお大師様、菩薩様のご苦労を思い、衆生済度の一念に触れて、お役に立たせて頂きたい、施しをさせて頂かずにはおれないという已むに已まれぬ思い、無我、無心、無欲、無所得の思いでさせて頂く施しだからこそ、真心の施しとなるのです。 夢殿の御回廊廻りの行も、同じです。 この汗露水を授ける為に、お大師様、菩薩様がどれほどのご苦労をしておられるか、その代受苦行のご苦労を思えば、千分の一でも万分の一でもいいから、そのご苦労の御汗をこの身に頂かずにはおれないという、已むに已まれぬ思いからさせて頂く行なのです。 そこにあるのは、「御懺悔」と「報恩感謝」の心だけであり、何かを目的にしたり、期待する心は微塵もありません。 もしこの行に、光り輝く汗露水を頂けるだけの値打ちがあるとすれば、いかなる結果をも求めず、ただ無我、無心、無欲、無所得でさせて頂く仏行だからです。 この仏行は、お大師様、菩薩様のご苦労を思い、「ご苦労をおかけして申し訳ありません。罪深き身ではありますが、どうぞ衆生済度のお役に立たせて下さい」といって、「懺悔」と「報恩感謝」の心でさせて頂く無我、無心、無欲、無所得の仏行であるからこそ、光り輝いているのです。 期待する心も、結果を当てにする心もそこにはなく、ただ無我、無心、無欲、無所得の心でさせて頂くだけでよいのです。それで行はすべて完結しているのです。 その後には何の思いも残りませんし、残してはなりません。思いを残す事は、わが計らいとなり、み仏の救済の妨げとなるだけです。 無我、無心、無欲、無所得の仏行これが法徳寺でする御回廊廻りの行ですが、では皆様がご自宅でして頂く御回廊廻りの行はどうでしょうか? 自宅でして頂く御回廊廻りの行は、法徳寺でする御回廊廻りの行と何が違うのでしょうか? 何も違いません。自宅でして頂く御回廊廻りの行も、法徳寺でする御回廊廻りの行と何ら違いはないのです。 勿論、ご自宅でして頂く行が、水道水を汗露水に変える為に欠かせない仏行である事は言うまでもなく、これを否定する事はできません。 しかし、大切なのは、ご自宅で行をして頂く皆様の心です。 もし行をする皆様の心が、水道水を汗露水に変える為という一点に執われているなら、この行は無我、無心、無欲、無所得の行ではなくなります。 汗露水は、菩薩様が流しておられる代受苦の御汗であり、その一滴一滴がご苦労の結晶と言っても過言ではなく、御回廊廻りの行は、そのご苦労の一滴一滴を頂く行であり、それ以下でもそれ以上でもありません。 にも拘らず、行をする皆様が、何らかのご利益を当てにしたり、結果を期待するようであれば、それは、代受苦行をしておられる菩薩様に更なるご苦労をおかけする事になります。 大切な事は、たとえご自宅でして頂く行であっても、否、水道水を汗露水に変える為にして頂く行であるからこそ、一切の執着を離れ、無我、無心、無欲、無所得の心でして頂かなければならないのです。 汗露臺からお授け頂く汗露水は、すでに光り輝く汗露水であり、そこにはもはや、地下水を汗露水に変える為の行はありません。 それに対し、ご自宅でして頂く御回廊廻りの行は、水道水を汗露水に変える為の行である事を免れる事は出来ません。 この点が根本的に違いますが、だからこそ、ご自宅で行をして頂く皆様は、汗露水に変える為の行であるという意識への執着を捨てなければならないのです。 水道水を汗露水に変える為の行であるからこそ、それさえも期待しない無我、無心、無欲、無所得の心がより一層強く求められているのです。 ご同行のKさんが、9年間取れなかった右腕の痛みから解放されたのは、表面的に見れば、水道水から変わった汗露水の雫を痛い右腕に付けられた賜物と言っていいでしょう。 しかし、水道水が霊験あらたかな汗露水に変わったのは、Kさんが、無我、無心、無欲、無所得の心で行を続けられたからであり、水道水を汗露水に変える事を目的に行をされたからではありません。 Kさんの無我、無心、無欲、無所得の心が、思いも寄らぬ果報をもたらしてくれたのです。 私達が心しなければならない事は、「汗露水をつけたら、9年間治らなかった右腕の痛みから解放された」という表面的な事実だけに心の眼を奪われてはならないという事です。 Kさんが、御回廊廻りの行を、無我、無心、無欲、無所得の心で続けてこられた事が尊いのであり、その尊さが分らなければ、「行をしても何のご利益も頂けない」と言うような思い違いをするお方も出てくるでしょう。 このようなお方に限って、期待通りの結果が出なければ信仰不信に陥り、神仏を仇に思い、益々救いから遠ざかっていってしまうのです。 御回廊廻りの行は、あくまで無我、無心、無欲、無所得でさせて頂く真心の行であり、汗露水と相まって初めて、その霊験を現してくれるものである事を、肝に銘じておかねばなりません。 ご苦労の光に触れさせて頂ける有り難さ汗露水が光り輝いているという事は、言い換えれば、お大師様と不二一体の生き仏となられた普門法舟大菩薩様(身代り升地蔵菩薩様)の代受苦行の御汗が光り輝いているという事であり、その光こそが、菩薩様の魂がいかなる事があって決して汚されない事を物語る何よりの証なのです。 汗露水を頂くという事は、そのご苦労の御汗を頂き、汚されない魂の光に触れさせて頂くという事です。 「境内全体が光り輝いているのを、ひしひしと感じます」「この水は、もの凄いお水です。光に包まれています。だから、誰も彼もに飲んで欲しくはありません」というMさんの言葉が物語っているように、御回廊廻りの行も汗露水も、すでにパワースポットとして光り輝いているのです。 だとすれば、「御懺悔」と「報恩感謝」の心をお供えする以外に、何を願い、何を求める必要があるでしょうか? そのご苦労の御汗、汚されない魂の光に触れさせて頂ける事が、まさにこの世では「有り得ない」事であり、「有ること難き(有り難き)」事なのです。 その意味で、お大師様、菩薩様のご苦労を偲び、ご苦労の御汗の一滴なりとも頂かせて頂きたいと思える人は、すでに、お大師様、菩薩様の大慈悲の御手に抱かれ、救われている人と言っていいでしょう。 以前は、御回廊廻りの行をしない事には、地下水も水道水も汗露水に変わらないと考えていましたが、千年に一度頂けるか否かと言われる聖水と聖行の真相は、もっと奥深く、神聖で冒すべからざるものだった事が、今になればよく分ります。 「この水は、もの凄いお水です。光に包まれています。だから、誰も彼もに飲んで欲しくはありません」とおっしゃったMさんの言葉には、非常に深い意味が込められていたのです。 平成27年8月8日
法徳寺のパワースポット(7)~菩提心を納める帰郷庵~ | ||
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