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み仏は 花の散るのは助けねど 花の心を 助くるという 生き方の違い誰もがみな限りある命を生きている事に変わりはありませんが、その生き方は人によって様々で、百人百様の生き方があると言っていいでしょう。 しかし、今年(平成29年)6月、神奈川県内の東名高速道路で、注意された事に腹を立て、進路を妨害したり、追い越し車線上に車を止めさせて、後方から来たトラックとの追突事故を引き起こし、ワゴン車の夫婦を事故死させ、同乗していた二人の娘にも怪我を負わせたとして、25歳になる福岡県在住の建設作業員の男が逮捕されましたが、そんな生き方しか出来ない人もいます。 また今年8月から10月にかけて、神奈川県座間市のアパートの一室で、男女9人を次々と殺害し、遺体をバラバラにして遺棄したとして、27歳の男が逮捕されましたが、僅か27年の短い生涯の中で残した愚かな爪痕は、死によっても帳消しにはならず、自らの業因縁として次の世へ相続し、償いをしなければならない事を考えると、末恐ろしい気がいたします。 与えられた命をどのように生きるかは個人の自由ですが、この二人の生き方は、反面教師にこそなれ、生き方のよき手本となりえない事だけは間違いないでしょう。 私たちがお手本とすべきは、やはりお釈迦様や、お大師様、菩薩様のように、お悟りを開かれたお方の生き方です。 お釈迦様は2500年余り前に亡くなられ、お大師様も1000年以上昔のお方です。菩薩様は、大正、昭和の時代を生きられたお方ですが、御入定されてからすでに四半世紀余りが経過しました。 お釈迦様もお大師様も菩薩様も、限られた人生を生きられた点においては、逮捕された二人の男と何ら変わりありませんが、その生き方は根本的に違います。 逮捕された男たちの生き方は、誰の共感も得られないのに対し、お釈迦様やお大師様、菩薩様の生き方は、いまも多くの人々に感銘を与え、生きるお手本となっているからです。 人間の生死とは肉体には限りがありますが、人間は、たとえ肉体が無くなっても、その生き方次第で、生きもすれば死にもする事を忘れてはなりません。 お釈迦様やお大師様、菩薩様は、肉体なき後もまだ生き続けておられますが、逮捕された男たちは、たとえ肉体はあっても、すでに死んでいると言っていいでしょう。 肉体だけを見れば、逮捕された男たちはまだ生きているように見えますが、注意された事に腹を立て、人に嫌がらせをし、その挙句に事故死させたり、無差別に9人もの若者を殺害して恐れを感じないその心は、もはや死んでいると言わねばなりません。 それに対し、お釈迦様やお大師様、菩薩様はどうかと言えば、インド各地の仏跡を訪ねると、「お釈迦様、お釈迦様」と言ってそのお徳を慕う多くの仏教徒の姿を見る事が出来ますし、紀州高野山や四国八十八ヶ所霊場へ行けば、お大師様の足跡を辿る多くのお遍路さんが列をなしています。 このように、お釈迦様やお大師様、菩薩様と、二人の男たちの生き方の違いを見れば、人間の生死とは何かがよく分かります。 誰も永遠には生きられないお釈迦様やお大師様、菩薩様が今も生き続けておられる事は間違いありませんが、一体何が今も生き続けているのでしょうか? 『道歌集』の中に、 つまり、その生き様が、いつの時代の人々にも感銘を与え、いまなお多くの人々の心を照らし、魂を救済し続けているからです。 勿論、お釈迦様やお大師様や菩薩様といえども、限りある肉体を、永遠に生かし、養う事は出来ません。 にも拘らず、肉体亡き後も生き続けておられるのは、今も「永遠を」生きておられるからです。 「永遠に生きる」と「永遠を生きる」とでは、何が違うのでしょうか? 「永遠に生きる」とは、百年後も千年後も生きたいという、未来に視点を置いた生き方で、生きる時間の長さだけを見据えた生き方と言っていいでしょうが、この生き方を願ったのが、秦の始皇帝です。 秦の始皇帝は、これから何十年も何百年も生き続けたいと願い、徐福という道士を東方の蓬莱国(ほうらいこく)に派遣し、不老不死の妙薬を探させました。 蓬莱国とは日本の事だと言われていますが、徐福には、そんな妙薬がない事など最初から分かっていました。しかし、始皇帝の前で、不老不死の妙薬など無いとは言えず、止む無く旅立たったのです。 帰れば殺されるか厳罰を受ける事が分かっていましたから、帰りたくても帰れなかった徐福が何とも哀れでなりませんが、限りある肉体を持つ以上、永遠に生きられる者など一人もいません。この地球も、永遠たりえず、必ず最期の時がやって来ます。要するに、誰も永遠には生きられないのです。 「永遠を生きる」とはしかし、「永遠に生きる」事は出来なくても、「永遠を生きる」事は、誰にでも出来ます。 「永遠を生きる」とは、限りある人生の中で、「私もこういう生き方がしたい」と、誰もが願う永遠に通じる普遍的な生き方をする事です。 この生き方をされたのが、お釈迦様ですが、この生き方の特徴は、未来を見つめ、生きる時間の長さだけを求める「永遠に生きる」生き方とは違い、今を如何に生きるかという一点を見据えている点です。 しかも、「永遠を生きる」のは、明日でも明後日でも一年後でも十年後でもなく、今しか出来ません。 お釈迦様は二千五百年前に仏教を開かれましたが、もしお釈迦様の生き方や教えが、当時のインドの人々にしか通用しない生き方であれば、仏教は残っていませんし、日本にも伝えられていません。 お釈迦様の生き方が、現代の私たちが聞いても感銘を受け、共感出来る生き方であり、永遠に通じる普遍的な生き方だったからこそ、今も多くの人々から、「お釈迦様、お釈迦様」と慕われ続けているのです。 それは、お大師様や菩薩様も同じで、お大師様は六十二年間のご生涯を通し、菩薩様は七十一年間のご生涯を通して、永遠に通じる普遍的な生き方をされました。 その生き方は、百年後になっても、千年後になっても、未来永劫変わりません。 どの時代に生きる人々にも、共感出来る生き方であり、永遠に通じる普遍的な生き方ですから、変わろう筈がありません。 花の心を助くるという 菩薩様の『道歌集』に、 花の命の火が燃え尽きるのを止める事は出来ないけれども、花の心を助ける事は出来るという意味ですが、花は、傷ついた人々の心を癒し、人生に潤いや喜びや希望を与えてくれます。 花の生き様は、まさに永遠に通じる普遍的な生き方であり、仏そのもの(花仏)と言っていいでしょう。 菩薩様が作られた御法歌『無常教える花仏』の三番に、 しかし、その僅かな間にも、微笑みながら、「皆さんも、私と同じように、美しい花を咲かせ、多くの人々の心に喜びと潤いを与えて下さいね」と、声なき声で、私たちの歩むべき道を教えてくれているのです。 その生き方を私たちも見習い、人々の心に潤いを与える生き方が出来れば、たとえ桜の花は散っても、その心は私たちと共に生きている事になり、それがひいては「花の心を助くる」事になるのです。 蜘蛛の糸芥川龍之介の短編小説に、『蜘蛛の糸』という小説があります。 或る時、極楽の蓮池のほとりを歩いておられたお釈迦様が、蓮の葉の間から地獄の有様をご覧になると、地獄の底の方でカンダタという男がもがき苦しんでいました。 このカンダタは、様々な罪を犯した極悪人でしたが、道端をはってゆく小さな蜘蛛の命を助けた事があり、お釈迦様は、その功徳に報い、極楽の蜘蛛の糸をカンダタの頭上に下ろされました。 カンダタがふと上方を見上げると、銀色に光り輝く蜘蛛の糸がゆらりゆらりと下りてきました。 「これはシメた!」とばかりに、カンダタは、さっそくその糸を上り始めましたが、途中でふと下の方を見ると、地獄へ堕ちた大勢の亡者たちが、その蜘蛛の糸につかまって、カンダタの後から次々と上ってきたのです。 それを見たカンダタは、蜘蛛の糸が切れたら大変だとばかり、「この蜘蛛の糸は俺のものだ。誰の許しを得て上ってくるのだ。みんな早く下りろ」と叫びました。そして、すぐ下にいた男の頭を蹴飛ばした瞬間、蜘蛛の糸は、カンダタの手元でプツリと切れ、あっという間に、蜘蛛の糸もろとも地獄の底へ真ッ逆さまに堕ちてゆきました。 その一部始終をご覧になっておられたお釈迦様は、わが身の事しか考えないカンダタの心根を哀れに思われたのでした。 いま為すべき事は何かカンダタのいる場所が現在、上っていこうとしている上方が未来、上ってきた下方が過去です。 カンダタは、蜘蛛の糸をたどりながら上っていく途中で、ふと下(過去)を見たのですが、カンダタが見なければならなかったのは過去でも未来でもなく、今(現在)であり、今だけを見て永遠に通じる普遍的な生き方をすればよかったのです。 永遠に通じる普遍的な生き方とは、下から上って来た人たちも一緒に、極楽へ導いてあげるという事です。 自分だけ助かりたいという思いで、すぐ下の男の頭を蹴った為に、再び地獄へ堕ちていったのですが、それは、カンダタの行動が、永遠に通じる生き方ではなかったからです。 カンダタが見なければいけなかったのは、過去でも未来でもなく、今自分が何をしなければいけないかという事であり、今だけを見て、永遠に通じる生き方をしていれば、自ずと未来は開け、地獄で苦しむ多くの人々と共に極楽へ行けたのです。 逮捕された二人の男たちの生き方は、まさにカンダタと同じ生き方と言っていいでしょうが、自分さえよければいいという利己的、刹那的な生き方の先に待っているのは、奈落の底でしかありません。 彼らにも救いの道がない訳ではありませんが、救われる為には、先ず根底からその生き方を変える以外に道はありません。 合掌 | |||
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南天(花言葉 良き家庭) |
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秦の始皇帝
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