![]() |
|
---|
![]() |
---|
![]() ![]() ![]() |
信じる者は救われるか?(1)― オウム事件から見えてきたもの ―オウム事件の検証昨年(2011年)12月31日の大晦日、オウム真理教事件の特別手配犯の一人、平田信(まこと)容疑者が警視庁に出頭して逮捕され、さらに今年(2012年)6月3日には、菊地直子容疑者が、6月15日には、最後の一人である高橋克也容疑者が相次いで逮捕され、松本サリン事件、地下鉄サリン事件をはじめ、数々の無差別テロ事件を起して社会に大きな衝撃を与えたオウム事件は、17年の歳月を経て大きな節目を迎えました。 オウム真理教のような反社会的カルト教団が出てくる背景には、景気の低迷による就職難や、失業問題、将来への不安、社会への絶望など、様々な悩みをかかえ、宗教に救いを求める若者の増加があると言われていますが、将来への不安と絶望の中で、自分の居場所を見つけようともがく若者が、救いを求めてオウムのようなカルト集団に入信したとしても、一概に責める事は出来ないでしょう。 オウム真理教が多くの若者を集めた17年前の平成7年(1995年)も、バブル崩壊後の平成大不況の真っ只中で、景気低迷による就職難や失業問題で、若者の間に閉塞感が広がっていました。 阪神・淡路大震災によって多くの人々が犠牲となり、人間の無力さを痛感したのも、ちょうどこの年でしたが、そんな状況の中で起きたのが、オウム真理教による地下鉄サリン事件、松本サリン事件などの無差別テロ事件でした。 リーマンショックから今日まで続く世界大不況の嵐に翻弄されながら、右往左往しているいまの若者のすがたを見ていると、17年前の状況が昨日のようによみがえってきます。 それだけに、再びオウム真理教のようなカルト集団が、救いを求める若者に魔の手を伸ばしてこないとも限りません。 現に、オウム真理教から名前を変えた教団には、今でも、オウム事件を知らない若者が入信し続けているとみられ、オウム事件を風化させない為にも、そして、二度とこのような凶悪事件を起させない為にも、宗教団体が何故このような事件を起したのか、オウム事件とは一体何だったのか、私たちはこの事件から何を教訓として学んだのか、後世に何を伝えていかなければいけないのかを、もう一度検証しておく必要があるのではないかと思います。 一切服従の心オウム真理教の信者が犯した事件は、坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件、公証人役場事務長逮捕監禁致死事件、そして教団を脱会したり反発したりした信者を次々と殺害したオウム信者殺害事件など、日本犯罪史上、類を見ない凶悪犯罪と言っていいでしょうが、信仰している者が、何故あれほどの凶悪事件を犯せたのかと、不思議に思われる方もいるかも知れません。 常識的に考えれば、殺す事でその人を救える筈がないのに、何故、何の疑いも抱かずに、教祖の命令に従えたのか。何故拒否出来なかったのか。 これは、誰もが抱く疑問ですが、それは、真の信仰とはどういうものかをご存じないからではないでしょうか。彼らが取った行動は、決して不思議な事ではないのです。 彼らが、教祖の言葉に何の疑問も抱かずに従ったのは、信者にとって、教祖の言葉は絶対的な意味をもっているからです。彼らにとって、絶対的存在である教祖の言葉は、いつ、いかなる時も正しく、間違いなどありえません。たとえその内容が、常軌を逸していても、教祖の口から出れば、すべて正しく、微塵の間違いもないのです。 信者の立場から言えば、そう信じ切らなければいけないし、そこまでいかなければ、信じ切ったとはいえません。だから、彼らは、教祖と仰ぎ、自らを最終解脱者と豪語する麻原教祖の「救う為には、ポアしなければいけない」という言葉に従ったのです。 教団内で、ポアと言えば殺人を意味しますから、信者は教祖の言葉に従い、常軌を逸した凶悪犯罪を犯したのです。 信者たちの過ちと不幸彼らの行動を見れば分るように、信仰とは、自分が信じた教祖の言葉に、絶対服従する事であり、信者たちが、あれだけの大罪を犯せたのは、教祖の言葉を信じ切って、絶対服従したからです。 誤解を恐れずに言えば、教祖の言葉を信じ切って、絶対服従した彼らの信心は、信心の手本と言っても過言ではありません。麻原教祖から見れば、彼らはまさに信者の鑑と言ってもいいでしょう。 しかし、彼らには、大きな過ちがありました。 それは、彼らが信じた教祖が絶対服従するに値する人物だったがどうか、つまり、信じた彼らを絶対に裏切る事のない教祖だったかどうかの判断を、信者たちは間違っていたという事です。 信仰とは、自分の計らいを一切捨て、全てを教祖のみ心にゆだねていく事です。教祖を信じ切るという事は、教祖が右へ行けと言えば右へ、左へ行けと言えば左へ行く事であり、人を殺せと言えば、人を殺すところまで行くのです。信じ切るという事は、そういう事です。 しかし、それは、とりもなおさず、教祖の言葉ひとつで、信者は、救われもすれば、破滅へも導かれる事を意味します。 教祖の言葉が人を破滅に導くことを証明したのが、まさにオウム事件ですが、イスラム過激派の自爆テロも、同じ延長線上にあると言っていいでしょう。 昔から「宗教はアヘンなり」と言われますが、オウム事件を見れば、宗教は麻薬と一緒だと言う意見も、あながち間違いとは言えません。 教祖の言葉ひとつで、平気で人を殺したり、無差別自爆テロに走るのですから、まさに麻薬と同じです。普通の人間であれば、たとえ人から命令されても、人を殺すことなど絶対に出来ないでしょう。オウムの信者たちも、オウムに入るまでは我々と同じ側に立っていた筈です。 ところが、ひとたび信仰の世界に入り、信じ切った教祖が人を殺せといえば、何の疑いも抱かずに、平気で人を殺せるようになるのです。ここに、信仰の怖さがあります。 勿論、これは、仏法を根本とし、悟りに裏付けられた正しい信仰には、当てはまりません。恐ろしいのは、間違った信仰に走った時です。 たとえ間違った教えであっても、教えを信じ切っている者には、正邪の判断をする事は不可能ですから、教祖から、人を殺す事が人を救う事だと言われれば、彼らは、何の疑いも抱かずに、その言葉を実行するのです。 しかし、先ほども言ったように、信じ切るという事は、そこまで行く事であり、そこまで行かなければ、信じ切ったとは言えないのです。 ですから、その信心が、真剣で純粋なものであればあるほど、もたらされる悲劇は計り知れないものとなります。それを証明したのが、オウムであり、麻原教祖を信じた信者たちの悲劇です。 宗教の根底にあるものここで皆さんは、或る疑問を持たれるのではないでしょうか。それは「何故教祖の言葉を、そこまで信じられたのか」と言う疑問です。 それは、やはり私たちが、迷える凡夫だからという他はありません。 私たちには、一寸先が見えません。真っ暗闇の中を、灯りももたず、手探りで歩いているようなものです。どこに落とし穴があるか、どこに階段があるか、どこに壁があるか、まったく先の見通せない人生を、あてどもなく歩いているのが、私たちなのです。 しかも、今よかれと思ってしている事が、明日になれば、よくなかったという事が、この世の中にはいくらでもあります。例えば、戦争がそうです。日本は、良かれという事で戦争を始めたのですが、戦争に負けて、やはり間違っていたという事になったのです。 つまり、人間の善悪の判断というものは、時代の変遷によって、どんどん変わっていくのです。これは、善悪の判断をする人間が、迷っている凡夫であり、先を見通す事が出来ないからです。 聖 それは、嘘と欺瞞と偽装が氾濫しているいまの世の有様を見れば、すぐに納得がいくのではないでしょうか。 しかし、み仏が説かれる真理は、いつの時代であっても変わる事がなく、真理を悟られた方(覚者)の判断には、間違いがありません。 一千年前には当てはまったけれど、今の時代には通用しないというような、変転極まりないものではありません。悟りは、普遍的なものであり、いつの時代においても、誰に対しても通用するのです。ですから、悟った方の判断に従っていけば、狂いがないのです。 覚者のお指図は、まさに真っ暗闇の人生を照らす灯明と言えましょうが、宗教は、いまお話した人間の弱さと不完全性、そして、悟りを開かれた覚者の完全性、先見性という大原則の上に成り立っているのです。 この大原則があるから、迷える人々は、悟りを開かれた教祖の教えを信じ、そのみ心に従って生きる事に喜びを見出すのです。オウムの信者たちも、例外ではありません。 しかし、自分が信じて従った教祖の教えが、悟りの裏づけを持たない邪教であれば、信者たちは、破滅の道を一直線に突き進む事になります。 何度も言うように、信仰する上で最も心しなければならない事は、自分が信じる教祖が、本当に信じるに値する人物か否か、信じる者を決して裏切らない人物か否かを、念には念を入れて見極めなければいけないという事です。 菩薩様は、『道歌集』の中で、次のように書いておられます。 人の世は何かにつけて苦労の多いものですが、そうした中で思わず取りすがった教えが慈悲なき教えであったら何といたしましょう。それこそ、迷路に入るばかりか、自己人生の破滅となるでしょう。 オウムの信者たちは、信者の立場としてみれば、まさに模範的な信者といえましょう。教祖の言葉を信じ切って、言われるままに行動したのですから。 何度も言いますが、本当に信じ切るという事は、そこまで行く事であり、だからこそ、一つ道を間違えると、怖いのです。 しかし、これが正しい教えであれば、世の中を変える力を発揮する事は間違いなく、そこまで信じ切れれば、自分はおろか、多くの悩める人々を救い、世の中を根底から変える事が出来るでしょう。 菩薩様が、「み仏はただ信じるのではなく、信じ切らなければいけない。お大師様は、ただ信じるのでなく、信じ切らなければいけない」とおっしゃった意味も、そこにあります。信じ切る心は、人を変え、人生を変え、世の中を大きく変える力を持っているのです。 信じる者は救われるのか?ー加持感応の妙次々と無差別テロ事件を起したオウムの信者を擁護するつもりはまったくありませんが、誤解を恐れずに言えば、私がオウムの信者を見て、いつも感心させられるのは、彼らの信仰心の強さです。 今年6月に逮捕された高橋容疑者は、逃亡から17年経ったいまでも、麻原教祖の著書や写真や説法テープなどを隠し持っていたそうですが、そう聞いた時は、正直言って驚きました。 ここまで徹底して信じ切る事が出来れば、まさに折り紙つきの信仰心と言ってもいいでしょうが、高橋容疑者が、まだ気付いていないのではないかと思われる事が一つあります。 それは、教祖と信者を結び付けている信頼関係の大切さです。 例をあげてお話ししましょう。私たちは、病気になると、お医者さんに診察してもらい、必要ならば薬を処方してもらいます。私たちは、その薬を、何の疑いもなしに飲んでいますが、何を基準に、薬を飲むか飲まないかの判断をしているのでしょうか。 もしかしたら、それは毒薬かも知れませんし、薬剤師が処方と違う薬を間違えて出しているかも知れません。にも拘らず、私たちは、何の疑いもなく、その薬を飲んでいるのです。何故でしょうか。 それは、お医者さんや薬剤師を信頼しているからです。つまり、薬を飲むか飲まないかを判断する決め手は、お医者さんや薬剤師を信頼しているかどうかです。 この信頼関係が崩れると、安心して薬も飲めなくなりますが、実は信仰も同じなのです。教祖が説いた教えを実践しようと思うのは、その教祖を信じているからであって、信じるに値しない教祖なら、誰もその教えを信じて、実践しようとはしないでしょう。 この教祖と信者との信頼関係は、信仰を維持する上でも、救われる上でも、欠くことのできない最重要事項と言っても過言ではありません。 お大師様は、『般若心経秘鍵』の中で、教祖と信者の関係について、次のように述べておられます。 「加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表わす。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく」 「加」とは、自分の身を捨ててでも信者を救いたいという教祖の捨て身の心(慈悲心)であり、「持」とは、教祖を信じ切って、一切をお任せしようとする信者の心(信心)です。 教祖の「加」の力である慈悲心と、信者の「持」の力である信心が一つになった時、加持感応の妙(不可思議)が現われ、迷える魂が救われるのですが、その為には、「加」の力と「持」の力が一つにならなければなりません。どちらが欠けても、救いは成就しないのです。 また、いくら信者の「持」の力があっても、「加」の力となる教祖が、信じるに値しない人物であれば、加持感応の妙は現われず、救いも成就しません。 キリスト教に「信じる者は救われる」という言葉がありますが、この言葉は、ただ神を信じる者は救われるという意味では決してありません。信じられる神が、信じるに値する存在であって、初めて「信じる者は救われる」のです。 「鰯の頭も信心から」(注1)という諺がありますが、これは、救いを求める上から言えば、正しくありません。信じる対象が、信じるに値しない鰯の頭でも、信じていさえすれば救われる訳では、決してないからです。鰯の頭を幾ら信仰しても、信じる者は救われないのです。 合掌 平成24(1912)年7月13日 信じる者は救われるか?(1)ーオウム事件から見えてきたもの | ||
---|---|---|
サツキ(皐月) |
||
(道 歌 集)
(注1)鰯の頭のようなつまらない物でも、信心すれば、有り難いと思うようになることから、他人の目にはつまらないものに見えても、信心する人にとっては尊くありがたい存在になるという意味。節分の夜に鰯の頭を柊の枝に刺して門口に飾っておくと、鰯の臭気が邪鬼を追い払うといわれていた事から生まれた言葉。
|
高野山法徳寺(たかのやまほうとくじ) | TEL:0551-20-6250 | Mailはこちらから |
〒408-0112 山梨県北杜市須玉町若神子4495-309 | FAX:0551-20-6251 |