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神の祝福か?輪廻の業か?(3)― 仏教徒から見たイスラム過激派の行動 ―疑問は是か非か『華厳経』には「信は道の元。功徳の母なり」と説かれ、『大智度論』に「仏法の大海には、信を持って能入となす」と説かれているように、仏教では信心の大切さが常に力説されています。 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教においても、信心が何よりも重要視されている事は言うまでもありませんが、一神教における信心と、仏教における信心とでは、その内容が大きく異なります。 一神教における信心は、唯一神に対する絶対的服従を意味し、神の教えに対し、如何なる疑問を持つ事も許されません。 何故なら、唯一神の言葉は常に善であり、真実であり、正しいからであり、その言葉に疑問を抱く事は、神を冒涜するに等しい事になります。 ましてや、神の言葉に背くなど、もっての他で、彼らは、いかなる疑問も抱かず、ただ素直に信じる者のみが神の祝福を受けると信じているのです。 それに対し、仏教における信心は、一神教の信心とは対照的です。 釈尊は仏教徒に対し、絶対的服従を求めてはおられません。それよりもむしろ、大いなる疑問を持つことを求めておられます。 何故なら、釈尊ご自身が、この世に様々な苦しみや差別や貧困がある事に大いなる疑問を持たれ、その解決の道を求めて出家なさったお方だからです。 釈尊の出家の動機を伝える『四門出遊(しもんしゅつゆう)』の説話によれば、王子であったシッダールタ(釈尊)は、お城の東門、南門、西門を出たところで、老人、病人、死人をご覧になり、老、病、死の苦しみから免れられない人間の赤裸々な姿に直面され、それ以来、一人物思いに耽るようになりました。 或る日、北門を出たところで出家者と出会い、その清楚で威厳に満ちた姿に感動したシッダールタ王子は、自らも苦しみから解脱する道を求めたいと、出家を決意されたと言われていますが、もしシッダールタ王子が、東門、南門、西門で、老人、病人、死人に出会っていなければ、何故人間は、老い、病み、死んでゆかねばならないのか、何故人間は、老、病、死の苦しみを感受しなければいけないのかという、大いなる疑問を抱く事もなかったでしょうし、出家を決意する事もなかったでしょう。 また、釈尊がお生まれになったインドには、カーストという身分制度があり、多くの人々がこの制度の下で虐げられた苦しい生活を強いられていました。 カーストとは、ヒンドゥ教の聖職者である「バラモン」、貴族、軍人階級である「クシャトリア」、商業、製造業に従事する一般の平民階級である「ヴァイシャ」、誰もが嫌がる仕事をする賤民階級である「シュードラ」、更にカーストにも入れてもらえない不可触民と呼ばれる最下層の「アンタッチャブル(ハリジャン)」に分かれる身分制度で、異なる階層の男女同士の結婚が許されないなど様々な差別がありました。 釈尊は、そのような身分差別を認めるヒンドゥ教に大いなる疑問を抱かれ、「人間は生まれながらに平等であり、いかなる階級に属する者であっても、等しく仏になれる」と説いて、カーストを否定されたのです。 釈迦十大弟子(注1)の内、バラモン出身者が5人、クシャトリア出身者が3人、ヴァイシャ出身者が2人である事を見ても、釈尊がカーストの身分制度を否定しておられた事が分かりますが、十大弟子の中で持律第一と言われた優波離(うぱり)は、ヴァイシャに属する元理髪師で、カーストでは、クシャトリアの下の階層に属しますが、釈尊は、後から入ったクシャトリア出身の後輩僧の指導者に、優波離を選ばれました。 それは、生まれながらの身分によって差別するカーストや、カーストを是認するヒンドゥ教に疑問を持たれた釈尊が、真理の下では人はみな平等である事を、天下に知らしめた象徴的な出来事と言えましょう。 たとえカーストがヒンドゥ教において認められた制度であっても、釈尊はただ盲目的に信じるのではなく、自ら納得出来るまで疑い、徹底的にカーストが真理にかなう制度であるか否かを究明されたのです。 そして、カーストは真理にかなった制度ではないとの悟りに到達されたからこそ、「人はみな生まれながらにして等しく仏になれる素質を具えている」という「一人一仏」の教え(仏教)を開かれたのです。 カースト制度に誰も疑問を抱かず、それが当たり前であった当時のインドで、カーストを否定した釈尊の教え(仏教)は、まさに革新的であり、宗教改革運動の先駆けと言っても過言ではありません。 仏教が、カーストに苦しむ人々の心をとらえた理由が分かりますが、釈尊がカーストは真理にかなう制度ではないという、大いなる悟りに到達されたのは、カーストに大いなる疑問を抱かれたからであり、大いなる疑問がなければ、大いなる悟りを開く事も出来なかったのです。 釈尊が、われわれ仏教徒に、大いなる疑問を持つよう、求めておられるのは、釈尊ご自身のこうした体験があるからであり、だからこそ、たとえいかに聖なる教えであっても、盲信するのではなく、大いなる疑問を持ち、真実の道(真理)にかなっているか否かを見極め、自らが納得出来るまで突き詰める事を、強く求めておられるのです。 大いなる悟りの裏に大いなる疑問あり釈尊は、「われの肉体を見るのではなく、われの法を見るものこそ、真のわれを見るのである」と説いておられますが、釈尊が仏となられたのは、言うまでもなく、縁起・無常の理法を悟られたからです。 つまり、釈尊を釈尊たらしめているものは、釈尊の姿かたちではなく、悟られたこの世の真理である縁起・無常の理法なのです。 もし悟りの法がなければ、釈尊はただの人に過ぎませんが、釈尊が縁起・無常の理法を悟られたのは、大いなる疑問を抱き、その疑問を徹底的に突き詰められたからに他なりません。 もし、当時のヒンドゥ教を何の疑いもなく盲信し、カーストという身分制度を在るがまま受け入れていれば、真理を悟る事も、仏の位に上る事も、仏教を開く事もなかったでしょう。 釈尊は、「私は肉体ではなく、法が本当の私である。この世の縁起・無常の理法を悟る者は、私を見る者である。私を信じられなければ信じなくてもよい。しかし、私が説く縁起・無常の理法を信じなさい」とおっしゃっておられますが、それは、ただ教えを盲目的に信じなさいという意味では決してありません。 何故なら、悟りは、教えを盲目的に信じるだけでは得られないからです。 大いなる悟りの扉は、大いなる疑問を持ち、その疑問を問い続け、納得出来たところに、はじめて開かれるのです。 一神教の信心が、疑う事を許さない謂わば盲目的な信心であるのに対し、釈尊が「たとえ私の言葉であっても、自分が納得出来るまで徹底的に疑い、究明しなさい。私の教えだからと言って、盲目的に信じてはいけない」と教えておられるのは、その為です。 何故アルジェリア人質事件を起したイスラム過激派が、人質とした人々に銃口を突きつけ、引き金を引く間際に、「これが果たしてアラーの意志にかなっているのだろうか?」という疑問を抱かなかったのかが、これでお分かりになったと思います。 要するに、彼らにとって最大の罪は、殺人ではなく、アラーを疑い、その命令に背く事なのです。それは、アラーに対する冒涜であり、イスラム教徒である自らに唾する行為だというのが、彼らの論理であり、信仰なのです。 だから、アラーの名の下にする行為であれば、たとえ殺人であっても、彼らが疑問を抱いたり、躊躇したりすることはありえません。 仮に仏教徒が彼らと同じ立場に立たされれば(勿論、現実にはあり得ませんが)、必ず疑問を持ち、躊躇し、自らに問い質すに違いありません。 「このような行動は、本当に仏の心にかなっているのか。釈尊が悟られた真理にかなっているのか」と。 それは、一神教の信心が、疑問を持つ事を許さない信心(盲目的信心)であるのに対し、仏教の信心は、大いなる疑問を持たなければ決して得られない信心(確信的信心)だからです。 15歳のパキスタン少女の訴え2012年10月9日、女性が教育を受ける権利を訴えて活動していた15歳のパキスタン少女、マララ・ユスフザイさん(注2)が、イスラム過激派「パキスタン・タリバン運動(TTP)」と名乗る複数の男達から、乗っていたスクールバスを襲撃され、頭部と首に二発の銃弾を受ける大怪我をした事件は、世界中に大きな衝撃を与えました。 現地で弾丸摘出手術を受けた後、イギリスの病院に移送されて、何とか一命はとりとめましたが、彼女を襲ったパキスタン・タリバン運動(TTP)」は、犯行後、教育権を求める女性の「反道徳的活動」へのイスラム法に基づく報復であるという、テロ行為を正当化する声明を発表しました。 女子学生の教育権を求める事が「反道徳的活動」で、女子学生を殺害する事が「イスラム法に基づく道徳的行動」であると主張する彼らの精神構造が、仏教徒の私には全く理解できませんが、「パキスタン・タリバン運動(TTP)」は、「男性は女性の保護者」とするイスラム教の聖典『コーラン』の一節を根拠に、男女平等を否定し、女性は家にいるべきだと主張して、女性の就労や教育も一切認めない、パキスタン最大のイスラム過激派組織で、この事件の後も、「パキスタン・タリバン運動」の仕業と見られる女子学校を狙った襲撃事件が相次ぎ、女性学生達は恐怖におびえながら勉学に励んでいます。 しかし、そんな状況下であっても、彼女達は、将来医者になりたいという夢を諦めず、懸命に頑張っているのです。 彼女達が医者を目指すのは、居住しているパキスタン北西部では、貧困層が多いため病院に行けない人が多く、十分な治療を受けられないまま亡くなっていく人が後を絶ちません。 更に、イスラム過激派に入っていく若者たちは、みな十分な教育が受けられない貧困家庭に育っており、何も知らないまま、ただ教えられた事だけを盲目的に信じて、犯行に及んでいるのが実状なのです。 だからこそ、彼女達は、多くの若者を貧困から救い、偏狭で盲信的な考え方を改めさせる為にも、医療と教育の充実が重要だと考え、イスラム過激派の襲撃による恐怖と闘いながら、毎日懸命に勉学に励んでいるのです。 イスラム過激派が生まれる背景には、貧困と劣悪な教育環境という大きな問題点がある事が伺えますが、マララ・ユスフザイさんを襲撃した今回の事件は、一神教徒の信心がどのようなものかを如実に物語っています。 マララ・ユスフザイさんは、「何故女性は教育を受けてはいけないのか」という、誰もが抱く素朴な疑問を抱き、それを認めないイスラム社会を批判し、世界に訴えたのですが、「パキスタン・タリバン運動」の若者たちは、彼女の疑問に耳を閉ざし、ただイスラムの教えを自らに都合の良いように解釈して、盲信し、あのような蛮行に及んだのです。 女性に教育を受ける権利を認めないイスラム過激派を見て思い出すのは、ヒンドゥ教の身分制度カーストです。 カーストは、生まれた階級によって人を差別するもので、ヒンドゥ教の聖職者であるバラモン階級に都合よく作られた制度ですが、先にも触れたように、「法(真理)の下ではみな平等であり、誰もが仏になれる」と説いて、カーストに真っ向から反対されたのが、釈尊なのです。 女性は教育を受けてはならないという考え方は、まさにヒンドゥ教のカーストのように、生まれながらの性別で差別するもので、この一節が、唯一神の教えでない事は、火を見るよりも明らかです。 何故イスラムでは女性が教育を受けてはいけないのか、私にはよく分かりませんが、穿った見方をすれば、女性が教育を受けては、男性上位のイスラム社会にとって都合が悪いからではないでしょうか。 教育を受ければ、教養を身につけた女性の社会進出も進み、男性と対等に生きてゆく女性も出てくるでしょうから、そうなれば、いままで報われなかった女性の地位向上も計られ、イスラムの教えに疑問を持つ女性も出てくるかも知れません。 否、現実に、マララ・ユスフザイさんのような、疑問を抱く女性が次々と現れてきているのです。 仏教徒から見れば、マララ・ユスフザイさんの疑問は、至極もっともであるどころか、大変望ましい事であり、「女性は教育を受けてはいけない」と決められている事に何の疑問も持たない方が不思議ですが、イスラム社会では、疑問を抱く事は不都合極まりない出来事なのです。 何故なら、今まで「女性保護」の名目で、女性を支配してきたイスラム社会の男性にとって、女性の社会進出は決して認められる事ではないからです。 教えの普遍性に対する疑問私は、一仏教徒に過ぎませんから、イスラム教の聖典である『コーラン』に、「女性は教育を受けてはいけない」という趣旨の一節があるのか否か知りません。 しかし、仮にそう書かれているとすれば、『コーラン』は、アラーの預言書という事になっていますから、アラーが預言者ムハンマドにそうおっしゃった事になります。 アラーは唯一絶対神であり、創造主ですから、アラーの預言書である『コーラン』は、普遍性を具えていなければなりません。 教えの普遍性とは、教えの内容が、いつでも、どこでも、誰でも、必ず認めなければならないものであり、その教えが、時間、空間を問わず、いつでも、どこでも、誰にでも、永遠に通用する思想である事を証明するものです。 例えば、仏教の根本思想の一つである「諸行無常」、つまり「この世に存在するものはすべて移り変わり、移り変わらないものは何もない」という教えは、千年前の人々であろうが、現在の我々であろうが、千年後の人々であろうが、一人の例外もなく納得する事実であり、誰も否定出来ない真理ですから、この教えが普遍的な教えである事は間違いありません。 問題は、「女性は教育を受けてはならない」という教えが、いつでも、どこでも、誰にでも通用する普遍性を具えているか否かという事ですが、ムハンマドが生きた時代はともかく、いまの時代に、「女性が教育を受けてはならない」という考え方が正しいと考える人など、イスラム教徒以外には一人もいないでしょう。 つまり、「女性が教育を受けてはいけない」という教えが、普遍性を具えていない事は明らかなのです。 そうだとすれば、この一節は、アラーが説かれた教えではない事になります。 もしアラーが説かれたのであれば、普遍性を持たないこのような教えを説かれたアラーは、もはや唯一絶対神ではありえなくなるからです。 そして、もし『コーラン』に、「女性は教育を受けてはいけない」という一節が書かれているのであれば、少なくとも、この一節だけは、アラーの預言ではない事になります。 その結果、『コーラン』は、アラーの預言を書き記した聖典であるというイスラム教の大前提が崩れる事になりますが、果たしてこのような言葉が『コーラン』に書かれているのでしょうか? 私には、このような言葉が書かれているとは到底思えませんが、もし書かれていないとすれば、「パキスタン・タリバン運動(TTP)」は、「男性は女性の保護者」とするイスラム教の聖典『コーラン』の一節を曲解していると言わざるを得ません。 そうだとすれが、ここから導き出される結論は、一つしかありません。 マララ・ユスフザイさんを襲撃したイスラム過激派は、アラーを信じているのでも、イスラム教を信じているのでもなく、ただ自分達が女性を支配するのに都合がよいから、イスラム教を自分達に都合よく曲解し、利用しているに過ぎないという事です。 それは、取りも直さず、アラーを自分達の都合の為に利用している事を意味し、彼らの行動は、アラーを冒涜するも甚だしいと言わなければなりません。 宗教の存在意義10名の日本人を含む多数の尊い人命が奪われた今回のアルジェリア人質事件を、宗教に携わる者はどのように受け止めればいいのか、無差別テロに走るイスラム過激派の行動をどう理解すればいいのか等々、考えさせられる事は山ほどありますが、仏教徒の一人として、繰り返される悲劇を目の当たりにする度に思う事は、宗教そのものの存在意義です。 宗教は何のために存在するのか? 宗教は、本当に人類を救えるのか? この問いは、イスラム過激派の手による悲劇が繰り返される度に、つねに心を悩ませる問題であり、未だに明快な答えを見出せないでいる問いでもあります。 勿論、宗教は、乱れた世を正し、苦しむ人々を救うために存在しているのであって、人のいのちを奪う為に存在しているのではありません。 しかし、現実を見れば、そこには、人を救うどころか、人のいのちを奪い、世の中の平和を妨げる手段となっている宗教の姿があります。 宗教によって救われた人々と、宗教によって犠牲になった人々のどちらが多いのかは知る由もありませんが、もし宗教というものがこの世に存在していなければ、犠牲にならなくてもよかった人々が少なくない事を考えると、暗澹たる気持ちにならざるを得ません。 いくら目を閉ざしても、そう認めざるを得ない現実が、目の前に立ちはだかっているのです。 昔から「宗教はアヘンなり」と言われます。この言葉は、仏教徒の一人として決して認めたくない言葉ですが、この言葉が偽りではない事を、目の前の現実が教えているのです。 勿論、宗教をアヘンにするのは、神でも仏でもなく、我々人間です。 使い方如何によって阿片が痛みを和らげる薬にもなれば、人間の命を蝕む毒にもなるように、宗教もまた、それを使う人間の心ひとつで、人類を救う利器にもなれば、命を奪う凶器にもなりうる諸刃の剣である事を、今回のアルジェリア人質事件や、マララ・ユスフザイさん襲撃事件は教えています。 菩薩さまは、『道歌集』の「求道の心得」の中で、次のように述べておられます。 人の世は何かにつけて苦労の多いものですが、そうした中で思わずとりすがった教えが慈悲なき教えであったら何といたしましょう。 アルジェリア人質事件や、マララ・ユスフザイさん襲撃事件を見れば分かりますが、宗教というものが、必ず人類の幸せに役立つという保証はどこにもありません。宗教を生かすも殺すも、すべてそれを担う人間にかかっているからです。 いくらその教えが本来、人類を救済する為に開かれた教えであっても、それを曲解し、誤解する人間がいれば、たちどころにして人類に牙をむく凶器にもなり得る事を、イスラム過激派は、教えています。 だからこそ、思うのです。 「人の上に立つ宗教指導者の指導力が、今ほど問われている時代はない」と…。 オウム真理教の教祖や、アルカイダのウサマ・ビン・ラディン容疑者のような道を踏み誤らせる指導者ではなく、釈尊や弘法大師のようなお方の指導力が、今ほど必要とされる時代はありません。 目には目、歯には歯今回起こったアルジェリア人質事件を契機に、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教と仏教の違いについて述べてきたのは、教えの優劣を比較したり、一神教を批判する為では勿論ありません。 何度も繰り返される悲劇や、これからも続くであろう無差別テロや宗教間の対立を解消する道はないのか、もしあるとすれば、それはどのような道なのか、そしてその為に我々は何をしなければいけないのかを、一仏教徒の立場から模索したいと考えたからです。 旧約聖書には、「目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、傷には傷、打ち傷には打ち傷」という言葉がありますが、この言葉は、「やられたら仕返しをする」、つまり復讐を容認する言葉と考えられています。 「同害報復法」と言われている一節ですが、目を傷つけられたら相手の目を傷つけ、歯を折られたら相手の歯も折るというように、被害者が受けた害と同等の害を加害者に与える事を許すものです。 際限のない復讐に歯止めをかけることを目的とした言葉とされていますが、とてもそうは思えません。 傷つけられたものと同価の償いなら賠償させてもよいという考え方は、程度が同じなら復讐してもよいという事であり、このような考え方で復讐に歯止めがかかる筈がないからです。 アラブ諸国から攻撃を受けたイスラエルが必ず反撃に出るのも、イスラエルの攻撃に対して、アラブ諸国が報復を止めないのも、ユダヤ教とイスラム教の聖典である旧約聖書に出てくる「目には目、歯には歯」という同害報復法が根拠になっているからです。 旧約聖書は、ヤハウェとの契約が記された聖典ですから、ユダヤ教徒にとっても、イスラム教徒にとっても、復讐は、ヤハウェに認められた権利なのかも知れません。 しかし、「同害報復法」のような考え方では、果てしない報復の応酬を招くだけで、真の解決に結びつかない事は明白です。 この言葉が神の言葉と信じられている限り、対立の解消など、夢のまた夢と言わねばなりません。 この果てしない報復の応酬こそが、まさしく仏教で説く輪廻の業の連鎖であって、結果として、親から子、子から孫へと、憎しみの因縁を果てしなく相続してゆく事になるのです。 仏教徒の眼から見れば、この「同害報復法」は、輪廻の業の連鎖を助長するだけの、人類の救済とは程遠い一節と言わざるを得ません。 合掌
神の祝福か?輪廻の業か?(1) | ||
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紅梅 |
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(注1)『維摩経』によれば、出家順に、次の10名とされている。
(注2)パキスタンの人権活動家。2009年1月、当時11歳だったマララ・ユスフザイさんは、イスラム過激派勢力「パキスタン・タリバン運動(TTP)」の支配下にあったスワート渓谷で恐怖におびえながら生きる人々の惨状を、イギリスBBC放送のウルドゥー語ブログにペンネームで投稿し、タリバンによる女子校の破壊活動や女性への人権抑圧を告発する「パキスタン女子学生の日記」を発表した。
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