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後世に伝えたいこと(1)東日本大震災から二年目の慰霊祭私達の祖先は、いつの世においても子々孫々が心豊かに生きてゆけるようにと、文化、芸術、芸能、伝統、風俗、行事、伝承など、日本民族の智慧の結晶とも言うべき様々な財産を、幾世代にも亘って伝えてくれました。 先人から受け継いだこれらの財産は今も生き続け、私たちはいま、その恩恵を受けて暮らしていますが、私たちもまた、先人から受け継いだこれらの財産の上に、私達の時代に生み出した新たな財産を積み重ねて、後世に伝えてゆく責任があります。 「災害伝承」「津波伝承」もその財産の一つで、東日本大震災では、その伝承の存在が大きく明暗を分けた事は、すでに周知の通りです。 震災から2年目を迎えた平成25年3月11日、東京の国立劇場で、政府主催の「東日本大震災2周年追悼式」が、天皇皇后両陛下ご臨席の下、しめやかに執り行われました。 残念ながら、隣国の中国と韓国は参列しませんでしたが、安倍総理をはじめ、衆参両院議員、各国代表、犠牲者の遺族など、多数の方々が参列して、黙とうがささげられました。 死者15,882人、行方不明者2,668人、合計18,550人もの方々が、犠牲になった東日本大震災の惨禍は、忘れようにも忘れる事が出来ません。 また避難中などに亡くなられた「震災関連死」が、被災3県(福島、宮城、岩手)だけで2,554人いるそうですから、合わせると2万人以上もの方々が、この度の震災によって犠牲になった事になります。 これは、阪神大震災の死者6,434名、行方不明者3名を大幅に上回る犠牲者数で、私たちは、この大災害を後世に伝え、二度と同じ惨事が繰り返さないようにしなければいけない責任があると思います。 宮古市姉吉地区の災害伝承そんな中にあって特筆すべきは、先人が残しておいてくれた「災害伝承」「津波伝承」の財産をしっかり守ったお蔭で、今回の大災害から免れた地区が幾つもあったことです。 岩手県宮古市は、沿岸部が津波にのまれて壊滅状態になりましたが、宮古市姉吉地区の12世帯40人は、すべての家屋が被害を免れました。 それは、1933年の昭和三陸大津波の後、海抜60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守ったからでした。 この地区は、明治29年(1896年)と昭和8年(1933年)の、二度の三陸大津波で、生存者が、それぞれ僅か2名と4名という壊滅的な被害を受けました。 そこで、住民たちは、昭和8年の大津波の直後、石碑(大津波記念碑)を建て、その後は、全員で高台に家を建てて暮らすようになったのです。 その石碑には、 この地区の住民全員が救われたのは、小さい頃から、「石碑の教えを破るな」と何度も言い聞かされて育ったお蔭と言っても過言ではないでしょう。 宮城県石巻市水浜集落の災害伝承宮城県石巻市の水浜集落では、約130戸の集落がほぼ壊滅しましたが、住民380人中、死亡したのは僅か1人、行方不明者8名だけで、住民の98パーセントが無事でした。津波は20メートルに達しましたが、20数メートルある高台にいち早く避難した為に助かったのです。 これほど少ない被害で済んだのは、昭和8年の昭和三陸津波や、昭和35年のチリ地震大津波を経験してきたからです。 この地区は、津波を増幅させるリアス式海岸の入り口に当たっているため、集落近くの役場前には、「地震があったら、津波の用心」と刻まれた石碑が建てられ、住民は、その言葉をいつも胸に刻んで暮らしていました。 この地区では、毎年、高台に上る訓練を実施していて、高台までの近道を体で覚えているため、住民380人の殆どは、津波が来る前に高台に避難して助かったのです。先人の経験を守り、活かす事の大切さが、ここでも生きていたのです。 岩手県釜石市の災害伝承東日本大震災で1200人を超す死者と行方不明者を出した岩手県釜石市では、3000人近い小中学生のほとんどが高台に避難して無事でした。 その背景には、古くから津波に苦しめられてきた三陸地方の言い伝えである「津波てんでんこ」があります。 「津軽てんでんこ」とは、「自分の責任で早く高台に逃げろ」という意味ですが、釜石市北部の大槌湾を望む釜石東中学校(生徒数222人)は、同湾に流れ出る鵜住居(うのすまい)川から数十メートルしか離れていないため、津波が来たら、ひとたまりもありません。 地震が発生した時は、ちょうど各教室で下校前のホームルームが行われていましたが、揺れが一段落した後、担任教師が「逃げろ」と叫ぶと、みんな一斉に校庭に飛び出し、教師の指示を待たずに、高台に向かって走りだしました。 途中で、隣接する鵜住居小学校の児童361人も合流し、中学生が小学生の手を引きながら、みんなで高台に向かって走りましたが、いつも防災訓練で集まる高台まで来たものの、誰かが「まだ危ない」と言ったので、さらに高台にある老人施設まで避難しました。 学校から走った距離は、1キロにもなりましたが、教師たちが点呼をとって確認したところ、登校していた両校の児童562人全員が無事でした。両校の校舎が津波にのみこまれて壊滅したのは、そのたった5分後でした。 浪分(なみわけ)神社の災害伝承伝承が途絶えて、活かされなかったケースもあります。 仙台市若林区に「浪分神社」と言う小さな神社がありますが、「浪分」という名前は、1611年(慶長16年)の「慶長三陸津波」に由来します。 1611年12月2日、岩手県三陸沖を震源とする地震が発生して、当時の仙台藩では、1700人超の死者が出ましたが、死者の多くが津波の被害者でした。 この津波は、太平洋岸から5キロほど内陸にある、現在の若林区霞目(かすみめ)付近に到達したと見られ、この周辺で津波が二手に分かれて引いていったので、92年後の1703年(元禄16年)、太平洋岸から約5キロ内陸の位置、つまり、津波が二手に分かれて引いて行った境目付近に建立されたのが、この神社でした。 1835年(天保6年)にも津波に襲われた為、さらに内陸部の海抜5メートルの現在地に移され、「浪分神社」と称するようになりました。 ところが、いつしか津波が襲ってきた境目に建てられたという伝承が忘れられ、今回の東日本大震災では、その伝承が活かされる事はありませんでした。 今回の東日本大震災の津波は、仙台東部道路にせき止められる格好で、神社の手前約2キロで止まりましたが、もし道路で堰き止められていなければ、神社まで届いていた事は間違いないでしょう。 一部の研究者から津波の危険性を指摘されていましたが、注目されることはなく、また「神社の存在は知っていたが、津波が襲ったという話は聞いたことがなかった」「道路がなければ神社まで届いたかもしれないが、『神社より海側に住むな』という話は聞いたことがない」等々の証言がある事から、伝承が途絶えていた事は間違いなく、伝承を確実に後世に伝えていく事の大切さを痛感いたします。 大島に残るみちびき地蔵の伝承津波の恐ろしさを昔話として伝えている所もあります。 三陸地方は、869年の貞観津波をはじめ、数々の津波被害にあっていますが、宮城県気仙沼市の離島、大島には、津波の恐ろしさを伝える「みちびき地蔵」という民話が伝えられています。 気仙沼大島には、昔から、明日亡くなるという人の魂が、天国に導いてもらえるよう、その前日に「みちびき地蔵」に挨拶に来るという伝承がありました。 ある日、地蔵の近くを通りかかった母子が、数多くの村人や家畜の魂までが、次々とお地蔵様に挨拶に来て、天へ上っていくのを見かけたので、恐ろしくなり、急いで家に戻って、その出来事を父に報告しましたが、父は信じようとしませんでした。 その翌日、浜辺ではこれまでに見たことのない引き潮が起こり、潮が満ちてくる時間になってもまだ潮が満ちてこないので、村人たちがおかしいと騒いでいるところへ、沖の方から山のような大津波が押し寄せ、母子と父は急いで裏山に上って助かりましたが、大勢の村人が津波にさらわれて亡くなりました。 これが「みちびき地蔵」といわれる民話ですが、村の伝承には、この津波で61人が亡くなり、牛馬6頭が死んだと記録されています。 また大島には、「大津波が来たら、島は三つに分断される」という「大津波伝説」が伝わっていましたが、多くの島民は、この伝承を半信半疑で受け止めていました。 ところが、東日本大震災で大島を襲った津波は、20メートル近い高さになって中央部で合流して島を分断し、さらに南部でも合流寸前まで迫ったため、この「大津波伝説」は、島民の命を守るために語り継がれてきた先祖の教えだった事が、今回の大震災でようやく明らかになったのです。 こうして、地震や津波で苦しめられてきた三陸地方には、数多くの「災害伝承」「津波伝承」が伝えられていますが、今回の東日本大震災では、語り継がれている地区と、いつしか忘れ去られてしまった地区で、大きく明暗を分ける結果となりました。 それだけに、19000人近くの犠牲者を出した東日本大震災を経験した私たちには、この大惨禍を後世に伝えていく責任がある事は言うまでもないでしょう。 合掌
後世に伝えたいこと(1) | ||
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紫陽花 |
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(姉吉地区の記念碑)
(水浜集落の記念碑)
(みちびき地蔵)
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