桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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悟り(仏法)こそ救いなり(1)



活かされなかった過去の教訓


今年8月20日未明、広島市北部で発生した大規模な土砂災害によって、多くの方が犠牲になられました。

連日、テレビ画面に映し出される被災地の状況を見て、大自然の破壊力の凄まじさを思い知らされた記憶が、いまも生々しく残っています。

被害にあった住宅地の裏山は、花こう岩が風化して堆積した「まさ土」という広島特有のもろい地質で出来ており、大量の雨水を含んでボロボロになった「まさ土」が、土砂と樹木を巻き込みながら、土石流となって山裾の住宅地に流れ込んだのが、被害を大きくした要因ですが、広島では、過去にも今回と同じような土石流が発生して、多くの方々が犠牲になっています。

この時の大災害がきっかけとなり2001年に施行されたのが、『土砂災害防止法』ですが、防止法は、都道府県や市町村に対し、危険箇所を調査した上で、警戒区域や特別警戒区域を指定し、ハザードマップを作製するよう義務付けています。

しかし、特別警戒区域では、宅地開発が規制され、地価が下がるなどの理由から、地元住民の理解が得られないのが実情で、今回も、被災地域の多くがまだ警戒区域に指定されていませんでした。

広島県内の土砂災害危険箇所は三万二千ヶ所にも上り、都道府県の中で突出して多いにも拘らず、広島での災害を契機として施行された防止法がお膝下の広島で十分機能しておらず、過去の教訓が活かされなかった事が、被害を大きくした最大の要因と言っていいでしょう。


明暗を分けたもの


過去の教訓と言えば、三年前の平成23年3月11日、東北地方を襲った東日本大震災で生死を分けたのも、やはり過去の教訓でした。

阪神大震災の犠牲者六千四百三十四名をはるかに上回る一万八千人を越える犠牲者を出した東日本大震災ですが、犠牲者を一人も出さなかった地域がありました。

明暗を分けたのは、やはり過去の震災の教訓を忘れないようにと、代々語り継がれてきた災害伝承・津波伝承でした。

岩手県宮古市の姉吉地区は、明治29年(1896年)と昭和8年(1933年)に発生した二度の三陸大津波で、生存者がそれぞれ二名と四名という壊滅的な被害を受けました。

そこで、住民たちは、昭和八年の大津波の直後に、「大津波記念碑」を建て、全員で高台に家を建てて暮らすようになり、そのお陰で、姉吉地区の十二世帯四十人は全員助かり、家屋もすべて被害を免れました。

また、千二百人を超す死者と行方不明者を出した岩手県釜石市でも、三千人近い小中学生のほとんどが高台に避難して無事でしたが、その背景にあったのは、古くから津波に苦しめられてきた三陸地方の言い伝えである「津波てんでんこ」でした。

「津波てんでんこ」とは、「自分の責任で早く高台に逃げろ」という意味だそうですが、釜石市北部の大槌湾を望む釜石東中学校(生徒数二百二十二人)は、同湾に流れ出る鵜住居川(うのすまいがわ)から数十メートルしか離れていないため、津波が来ればひとたまりもありません。

地震が発生した時は、ちょうど各教室で下校前のホームルームが行われていましたが、揺れが一段落した後、担任教師が「逃げろ」と叫ぶと、みんな一斉に校庭に飛び出し、教師の指示を待たずに、高台に向かって走りだしました。

途中で、隣接する鵜住居小学校の児童三百六十一人も合流し、中学生が小学生の手を引きながら、みんなで高台に向かって走りましたが、いつも防災訓練で集まる高台まで来たものの、誰かが「まだ危ない」と言ったので、さらに高台にある老人施設まで避難しました。

学校から走った距離は、1キロにもなりましたが、教師たちが点呼をとって確認したところ、登校していた両校の児童全員が無事でした。両校の校舎が津波にのみこまれて壊滅したのは、その僅か五分後でした。

生徒全員が助かったのは、まさに奇跡と言っていいでしょうが、全ては、過去の教訓を忘れずに、津波の恐ろしさを語り継いできた努力の成果と言っていいでしょう。


仏法を後世に伝えるには


先人の教訓や叡智を後世に語り継ぐ事の大切さは、災害伝承や津波伝承だけに留まりません。

僧侶の私が申し上げるのは我田引水かも知れませんが、心の闇を照らし、人々を救済へと導く仏法もまた、後世に語り継いでいかなければならない人類の宝であり、これは、命を賭してでもやり遂げねばならない一大事と言っても過言ではありません。

歴史を顧みれば、多くの先覚者が、命がけで仏法の灯を伝えて下さったお陰で、私達はいま、真理の光明に照らされながら、道に迷う事もなく、心安らかに歩ませて頂く事が出来るのです。

だからこそ、私達には、先人があらゆる苦難を乗り越えて伝えて下さった仏法の灯を絶やすことなく、後世に伝えていく大きな責任(使命)がありますが、仏法を伝えるに当り、常日頃から自らに言い聞かせている事があります。

それは、仏法は口で伝えるものでも、言葉で聞くものでもなく、実践を通して伝え、行いを通して聞くものだという事です。

仏法(真理)を説く事を説法と言い、その法を聞く事を聞法と言いますが、法を説いたり、法を聞くだけでは、ただ知識としての教えの貸し借りをしただけに過ぎません。

この段階ではまだ真理(悟り)としての法を伝えた事にも、法を聞いた事にもなりません。

例えば、私が皆さんに「私は、こう悟りました」とお話しても、話を聞いた皆さんは、それで悟り(法)を得た訳ではありません。

ただ私からの借り物である知識(教え)を得たに過ぎないのです。

その借り物に過ぎない知識を、皆さんが自ら実践し、体験し、納得出来た時、初めて借り物であった知識(教え)が、皆さんの身に付いた財産(仏法)となります。

古歌に
  いっぱいの 飲みたる水の味わいを
    問う人あらば 何と答えん
 と詠われていますが、法舟菩薩様の代受苦の御汗を意味する汗露水の味わいを幾ら伝えたいと思っても、言葉で伝える事は出来ません。

しかし、飲んでいただけば、すぐに分ります。これが自ら実践し、体験し、確認し、納得して頂くという事であり、行いを通して法を聞くという事です。

飲んでみるまでは、知識(教)として知っているだけで、飲むという実践(体験)を通して、ようやくお悟り(法)に変わるのです。

幾ら法を聞いても、聞いた段階では教え(知識)に過ぎず、その教えを、自らが行いに変えた時、初めて法(お悟り)になるという事だけは、どうか忘れないで頂きたいと思います。


有り難さを知って有り難さを知らず


法徳寺へ帰郷され、同じように説法を聞いておられる皆様の中にも、どんどん救われていくお方もいれば、中々救われていかないお方もおられます。

勿論、私は、帰郷された皆様を分け隔てして説法している訳ではなく、同じように説法しているつもりです。

聞法された皆様も、みな口を揃えて「とても良いお話を聞かせて頂き、有り難うございました」と言って帰って行かれます。

にも拘らず、このような違いが現れてくるのは何故か?

それは、私の説法をただ知識として聞くだけで終わっているお方と、それを実践し、体験し、確認し、納得しているお方がいるからです。

法舟菩薩様が、よく「有り難さを知って、有り難さを知らず」とおっしゃっておられましたが、これは、「説法をただ知識として聞いただけで、有り難がっていては駄目だ」という意味で、有り難いと感じれば、さらにそれを自らが実践し、体験し、納得して、悟りを深めていくことが大切であるとのお諭しです。

そこまで行って初めて、借り物(知識)が自分のものとなり、有り難いと言っていた言葉に血が通うようになるのです。

仏法を頂き、頂いた仏法を伝えていく為には、借り物(教)とお悟り(法)の違いをしっかり見極め、実践を通して借り物(知識)を自らの財産(悟り)としてゆく努力を怠ってはならないのです。


体験し納得する事の大切さ


以前、ご同行の中に、「今まで、あの人を憎いと思っていましたが、相手を拝まなければいけないと言われたので拝んでいたら、その人が変わってきました。自分が変われば、相手も変わると言われた事が、体験を通してようやく納得出来ました」とおっしゃっておられるお方がいましたが、そのお方は、菩薩様の「仇を拝めば冥利に尽きる」という教えを、実践によって確かめられ、教えを法(お悟り)に変えられたのです。

 仇をなす 人は菩提(さとり)の道しるべ
    仇を責めるな 仇でさとれよ
  憎しやと 思う人にぞ慈悲の手を
    かける人をば 仏とぞいう

今までは、仇を拝まなければいけないと、頭では理解しておられたのですが、中々相手を拝む事が出来ませんでした。

しかし、憎い人の救いを祈るようになったら、相手も変わり、「仇を拝めば、自分も救われる」という教えの意味が分ったのです。

分かったという事は、その教えが、その人のお悟りになったという事です。

頭で「仇を拝まなければいけない」と思っている内は、まだ知識(教え)であって、行いを通して体験し、納得して、初めてお悟りになるのです。

これは、体験によって得た悟りですから、永遠に消えることがなく、まさに身に付いた真の財産と言っていいでしょう。

法徳寺で説法を聞く(聞法)という事は、菩薩様から仏法をいただき、その法を実践して頂く為です。

聞法とは、言い換えれば、何をすればよいかを知り、日々の暮らしの中で実践していく為の準備作業に他なりません。

「お水にも手を合わせ、車にも手を合わせ、昇る朝日や沈む夕陽にも、手を合わせて感謝しなければいけない」という事が聞法で分かっても、実践しなければ、何も変わりません。実践をする事によって初めて納得する事ができ、聞法した事が自らの悟りとなって活きていくのです。

説法を聞いた直後、「よく分りました」とおっしゃるお方がおられますが、その時点では、まだ話を聞いて、何をすればよいかが分っただけです。

この段階で、「悟った」と思い違いをするお方が時々おられますが、この方々が陥りやすいのが、先ほどお話した「有り難さを知って、有り難さを知らず」という落とし穴です。

お悟りは、「聞法」によってではなく、「行法(実践)」によって初めて得られるものであるという事を常に忘れず、法を頂く時は、この落とし穴に足をとられぬよう、くれぐれも用心しなければなりません。


平成26年10月23日


悟り(仏法)こそ救いなり(1)
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