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悟り(仏法)こそ救いなり(3)災い(禍)転じて福と為す「人間万事塞翁が馬」という諺があります。 中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」に書かれている故事ですが、辺境の城塞に住む一人のお爺さん(塞翁)が持っていた立派な馬が、どこかへ逃げてしまいました。 それを悲しんだ人々が、「お爺さん、立派な馬に逃げられて、お気の毒ですね」と言うと、お爺さんは、「いやいや、世の中は、何が幸いし、何が災い(禍)するか分かりませんよ」と言って、あっけらかんと笑っていました。 すると或る日、いなくなった馬が、もう一頭の立派な馬を連れて戻って来たので、人々が「お爺さん、立派な馬が一頭増えて良かったですね」と言うと、お爺さんは、「いいえ、これが幸いかどうかも分りません」と言って、喜ぶ様子はありませんでした。 すると、今度はお爺さんの息子が、その馬から落ちて大怪我をしたので、人々が、「立派に育てられた息子さんがこんな事になってしまい、お気の毒です」と言うと、相変わらずお爺さんは「いやいや、世の中は、何が幸いするか分かりません」と言って、苦にする様子もありませんでした。 やがて戦争が起こり、戦場に駆り出された多くの若者が命を落とし、遺骨となって帰ってきましたが、お爺さんの息子は、大怪我をしたため、戦争で命を落とさずに済んだのです。 まさに「人生はあざなえる縄の如し」で、何が幸いし、何が災い(禍)となるかは、誰にも分りません。 だからこそ、幸せだと言って有頂天になったり、不幸だと言って嘆き悲しむのではなく、どんな不都合な出来事や、不幸な試練に遭遇しても、それを幸せに変えていける智慧を養う事が大切なのです。 言うまでもありませんが、自分を幸せにするのも、不幸にするのも、みな自分です。不幸を幸せに変えてくれるのも、すべてわが心です。 自らが、災い(禍)を転じて福と為さなければ、誰も変えてはくれません。 幸不幸、吉凶禍福は紙の裏表のようなもので、どちら側から物事を見るかの違いに過ぎません。 もしあなたが災い(禍)を転じて福と為す事が出来るなら、それは、今まで災い(禍)を転じて福と為す悟りの眼が開けていなかっただけで、不幸な星の下に生まれた訳でも、運が悪かった訳でもありません。 いかなる人生であっても、災い(禍)を福に変えていく悟りの眼を磨かなければ、人生は好転しませんし、真の救いも得られません。 災い(禍)を転じて福と為す悟りの眼さえ開ければ、もはや誰もあなたを不幸のどん底に陥れる事など出来ません。 悟りの智慧に守られたあなたは、まさに「鬼に金棒、弁慶に薙刀」と言っていいでしょうが、その為には、常に仏法に触れ、悟りの智慧を磨いて、み仏の本心を悟らせて頂けるよう、心のアンテナを張り巡らせておく事を忘れてはなりません。 無明橋を彼岸橋に紀州高野山の奥の院に流れる玉川に、一本の橋が架かっています。橋の名前は、「御廟橋」と言い、別名「無明橋」とも言います。 無明とは、文字通り「明かりが無い」心の状態、つまり迷いを意味します。 無明煩悩という言葉があるように、真理に背を向けた状態が無明であり、貪り(貪)、怒り(瞋)、愚痴嫉妬(痴)という三毒煩悩が渦巻いている心の有様を言います。 ですから、「無明橋」は、「迷い橋」「三毒煩悩橋」という事になりますが、この「無明橋」を渡らなければ、お大師様の御廟へはお詣り出来ません。 玉川を境として、お大師様の御廟のある聖地を彼岸(極楽)、お悟りの世界とすれば、玉川の手前は、此岸(六道)、迷いの世界です。 お大師様の居られるこの世の彼岸(極楽)である御廟へお詣りするには、この無明橋を越えていかなければなりません。 この橋が「無明橋」と名付けられているのは、無明を越えなければ、彼岸へは往けない事を教える為ですが、今もお話ししたように、「無明橋」は、「迷い橋」「三毒煩悩橋」ですから、このままでは余り渡りたい橋とは言えません。 では、どうすればよいのか? 簡単です。迷いを悟りに変えればいいのです。「無明橋」「迷い橋」を「悟り橋」に変えればいいのです。 菩薩様は、この橋を「彼岸橋」と名付けておられました。 つまり、菩薩様は、他の人々がみな「無明橋」と名付けられたこの橋を渡っている時、感謝の気持ちを込めて、「彼岸橋」を渡っておられたのです。 何故かと言えば、「無明」を悟りに変えておられたからです。「災い(禍)転じて福と為す」とは、まさにこの事です。 菩薩様は常々、「思い方を変えるだけで、人生が根本から変わる」と、おっしゃっておられましたが、「無明橋」を渡るか、「彼岸橋(極楽橋)」を渡るか、わずかそれだけの違いで、心の世界が百八十度変わることさえあり得るのです。 ご本尊様のご分身をお迎えする神社仏閣にお参りしますと、ご本尊様のお札や様々なお守りが、所狭しと置かれています。 法徳寺にも、ご家庭でお祀りして頂くご本尊・身代り升地蔵菩薩様のご守護札や、玄関に貼っていただく魔除け札などがありますが、これらのお札やお守りには、どういう意味があるのかご存じでしょうか? ご本尊様のお札であれ、お守りであれ、全てご本尊様のご分身です。 ですから、お札を頂いて家にお祀りするという事は、ご本尊様を家にお迎えする事を意味します。 交通安全のお守りを頂いて自動車に付けるのも同じで、ご本尊様のご分身を自動車にお迎えするという事です。 日本では、交通事故で死亡する人が、毎年4,000人以上います。昨年の死者数は、4,373人で、一日12人、2時間に一人が交通事故で亡くなっているのです。 死者数が最も多かったのは、昭和45年の16,765人で、その年と比較すれば4分の1にまで減少していますが、それでも4,000人以上の方が犠牲になっている現実は、決して他人事では済まされません。 車なしでは暮らせない現代社会に生きていかねばならない以上、常に交通事故と隣り合わせの生活を強いられていると言っても過言ではないでしょう。 「自分は絶対4,000人の中には入らない」という保証はどこにもありませんから、どうすれば交通事故から身を守れるかを日頃から考えておかねばなりません。 お札やお守りは免罪符ではない交通安全のお札やお守りを一度も頂いた事が無いというお方は、恐らくいないと思いますが、にも拘わらず交通事故が無くならないのは何故なのでしょうか? 世の中には、「交通安全のご祈祷をしてもらい、お守りを頂いたのだから、もう安心だ。どんな運転をしても大丈夫だ」というような誤解をしておられるお方がいますが、お札やお守りは、どんな危険な運転をしても守ってくれる免罪符ではありません。 今もお話ししたように、交通安全のお守りを自動車に付けるという事は、私達にとって、最も大切なお方をお迎えするという事です。 例えば、外国から来られた国賓を車で送迎しなければならなくなった時、皆さんだったらどのような運転をされるでしょうか? 国賓を無事に目的地までお送りしなければならない大きな責任を負う訳ですから、無謀な運転や乱暴な運転は出来ません。細心の注意を払って安全運転を心がける事が求められます。 つまり、大切なお方を車にお乗せするという事は、細心の注意を払って運転しなければならない責任と義務を負うという事であり、この心配りが、自ずと交通安全へとつながっていくのです。 交通安全のご祈祷をしてもらい、お札やお守りを頂いたからといって、それで、交通安全が叶えられる訳では決してありません。 ご本尊様のご分身を車にお迎えする事によって、「大切なご本尊様をお迎えしたのだから、目的地まで無事にお送りできるよう、安全運転を心がけなければいけない」という心配りが出来るようになるから、自ずと交通安全が叶えられるのです。 交通安全のお札を付けただけで、交通安全の願いが叶うなら、とうの昔に、世の中から交通事故は無くなっている筈であり、毎年4,000人以上もの方が犠牲になる必要はありません。 菩薩様の法歌に、 「親や家族の命を預かっているのは、運転する私なのだ。自宅まで、家族を無事に送り届けられるよう安全運転に心がけなければいけない」という家族への想いが、自ずと安全運転へつながっていくのです。 私は今まで何十年もの間、車を運転して来ましたが、「どうかお守り下さい」とお願いして車を運転した事は一度もありません。 車を運転する時は、いつも「どうか私に、この車をお守りさせて下さい」とお祈りしてから乗るように心がけています。 何故かと言えば、自分以外に自分や家族を守れる者はいないと思っているからです。またそのような想いで運転させて頂くからこそ、神仏のお守りがあり、万が一の時にも救いの御手を差し伸べて頂けるのです。 要するに、お札やお守りは、運転する人に、安全運転への細心の注意を促す為に頂くものであって、「お守りを吊っておれば、交通安全の願いが叶いますよ」と言うような、ただの気休めではないという事です。 お守りを頂いた人が、その想いになって車を運転しない限り、交通事故はなくなりません。 お札もお守りも、その想いに目覚めて頂く為の方便である事を忘れてはなりません。 目的と手段をはき違えてはいけない四国八十八ヶ所霊場や西国三十三ヶ所霊場へ行きますと、お参りした記念に、御朱印帳や掛け軸や笈摺(白い布地で作った袢天)に御朱印を押して頂くのが、昔からの習わしです。何回もお参りしているお方の御朱印帳や笈摺は、重ね印で真っ赤になっています。 法徳寺にも、御本尊様の御朱印があり、帰郷された御同行の皆様は、帰郷された記念に御朱印を受けていかれますが、御朱印を頂くのは何のためでしょうか? 御朱印は、言うまでもなく、お参りした記念として頂くもので、御朱印を押した掛け軸を床の間にお祀りしたり、年忌法要をする時に使ったりしているお方も大勢おられます。 しかし、忘れてはならない事が一つあります。 それは、御朱印もまた、お札やお守りと同じようにご本尊様の御分身であると共に、皆様を救いの門に導く方便(手立て)の一つだという事です。 御朱印を頂く為には、必ず神社仏閣へお参りしなければなりません。 つまり、一人でも多くの皆様にお参りして頂いて、ご本尊様と仏縁を結んで頂き、そのお徳に触れて頂く為の方便(手立て)として作られたのが、御朱印なのです。 ところが、このような方便を作ると、必ず思い違いをするお方が出てきます。方便(手立て)に過ぎない御朱印集めが、いつの間にか目的になり、御本尊様にお参りもせずに御朱印だけを頂いて帰っていかれるお方が出てくるのです。 お四国霊場でも、折角、霊場まで足を運んでおきながら、本堂も大師堂もお参りせず、御朱印だけを貰って慌ただしく次の霊場へ行かれるお方がいますが、目的と方便(手段)をはき違えて、御朱印集めだけが目的になれば、ご利益も何もあったものではありません。まさに、本末転倒と言わねばならないでしょう。 「牛に引かれて善光寺参り」という有名なお話があります。善光寺の観音様が牛に姿を変えて、強欲なお婆さんが大事にしていた布を角に引っ掛けて善光寺まで導き、信仰の心に目覚めさせたという話ですが、御朱印も同じです。 人間には、みな欲があります。誰でもご利益を頂きたいし、幸せになりたいから、ご利益があると聞けば、どこへでも足を運びます。 み仏は、「あの神様は、こんなご利益がありますよ。この仏様は、一つだけ願いを叶えてくれますよ」と、人間の欲を誘い水にして導こうとしておられるのです。 勿論、み仏の本心は、私達の欲を満たす事ではありません。一つの欲を満たしても、また次々と新たな欲が生まれ、欲の充足に執着している限り、本当の救いはないからです。 しかし、初めから「欲を捨てなさい。執着から離れなさい」と難しい事を言っていては、誰も救いの門に入ってきません。 そこで、お札やお守りや御朱印など、あの手この手の方便(手立て)を使って、私達を導こうとしておられるのです。 お札もお守りもご朱印も、有り難いには違いありません。しかし、本当の有り難さは、これらの方便(手立て)を通じて、み仏の本心に触れさせて頂き、救いの門に入らせて頂けるところにある事を忘れないで下さい。 八方塞がりは神仏のお導き「八方塞がり」という言葉を、よく聞かれると思います。 「或る所で占ってもらったら、今年は八方塞がりだから、何もしてはいけないと言われました。どうしたらいいでしょうか?」と言って相談に来られるお方がいますが、仏法(お悟り)の世界には、「八方塞がり」などというものはありません。 「八方塞がり」と言われたからと言って、悩んだり落ち込んだりする必要は全くありません。何故なら、仮に八方が塞がっていても、天地(神仏)の救いの門は、いつ、いかなる時も開いているからです。 救いの門は、いまだかつて一度も閉ざされた事がありませんし、神仏の救いの門を閉ざせる者など、この世にはいません。 ですから、もし占い師に「八方塞がりだ」と言われたら、「どうしたらいいのか?」と言って迷うのではなく、「信仰の心に目覚めなさいという神仏のお導きだ」と悟ればいいのです。 「八方塞がり」は、本当の信仰に目覚める絶好の機会です。 信仰の心に目覚める事が出来れば、それが何よりの救いとなり、ご先祖への供養となります。 嫌だと思っていた「八方塞がり」も、悟れば、本当の信仰に目覚める有り難いお計らいに変わります。「災い(禍)転じて福と為す」とは、まさにこの事です。 但し、一つだけ御忠告します。 その占い師の所へ行くと、益々迷いが深くなるだけですから、二度とそこへ行ってはいけません。 何度もお話ししてきたように、「災い(禍)転じて福と為す」結果をもたらしてくれるのは、狂いのない仏法(悟り)だけです。 世の中には、占星術や占いや霊感など、人を迷わせるものがあふれていますが、真の救いは、仏法(悟り)でしか得られません。 仏法(悟り)がないと、災い(禍)が福に変わる道理が分りませんから、「今年は八方塞がりだ」「天中殺だ」と言われて、益々迷いを深めなければならなくなります。 様々な占いは、ただの統計学に過ぎず、真理を悟った中から生まれたものではありませんから、迷いから抜け出す事は出来ません。それどころか、益々迷いを深めるだけです。 法舟菩薩様は、「家相が悪いから家の位置を変えた、流しが悪いから流しの位置を変えた、井戸の位置が悪いから井戸を埋めなさいと言われて、井戸を埋めたと言う人もいるんです。長い間ご厄介に成って来た井戸を、まだ水がどんどんと湧いているのに、それを埋めてしまった訳です。そういう敬いを知らない事をするんです。拝み屋さんか霊感者か知りませんが、お伺いを立てて貰ったら、何々が悪いからこうなるんだよと言われたので、言われた通りにしたけど、少しもよくならないと言って、駆け込んでくるんです。そうして益々不幸せな泥沼へ入って行くんです」と言って嘆いておられますが、残念ながら、これが、多くの人々が迷いの泥沼から抜け出せない現実なのです。 以前、四国霊場の或る宿坊で、霊感占いをしているというお方と同宿した際、何かに悩んでおられる様子だったので尋ねると、「相談に来られる人に何と言ったらいいのか、いつもそれで悩むんです」という答えが返ってきて、驚いた事があります。 他にも同じような悩みを訴えるお方がおられましたが、人を導くべき立場にある人もまた迷っているのですから、迷える人々を救える道理がありません。 平成26年11月13日
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