桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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悟り(仏法)こそ救いなり(5)



自らの道は自らで決める


繰り返しお話しているように、島田紳助氏の『お坊さんがズバリ解決・紳助の駆け込み寺!』という番組に出演した相談者の女性が最優先に取り組まねばならない事は、「今のままで良いのか、整形手術をした方が良いのか」を判断する事でも、その判断を他人に委ねる事でもありません。

その判断をする前に、いかなる不都合な結果をも在るがまま受け止められる人間に生まれ変わる事が先決であり、その心が出来た時、初めて自分の進むべき道がハッキリ見えてきます。

自分が生まれ変われば、他人に相談しなくても、進むべき道を自分で決断出来るようになるのです。何故なら、彼女の心の奥底に眠る内なる仏が目覚め、進むべき道をハッキリ示してくれるからです。

進むべき道を指し示してくれるこの内なる仏こそ、生まれ変わった彼女の本当の姿です。

他人に相談しなければ決断出来ないのは、まだいかなる結果をも在るがまま受け入れられる心になっていないからであり、内なる仏が目覚めていないからです。

今の彼女は、まだ自分の本当の姿を知りませんし、自分の本来の立ち位置にも気付いていません。

そんな状態ですから、進むべき道に迷うのが当たり前で、今のままで在り続ける限り、彼女の迷いはいつまで経っても消えません。

要するに、彼女の迷いは、自分の本当の姿にも、本来の立ち位置にも全く気付いていない事が原因ですから、彼女自身が変わらなければ問題は何も解決しないのです。

他人が「今のままで良いのか、整形手術をした方が良いのか」を判断してあげれば解決出来る問題ではないのです。


内なる仏への目覚め


「内なる仏に目覚める」とは、自分自身の本当の姿に目覚める事であり、自分の在るべき姿に立ちかえる事ですが、ご存知のように、世間では、亡くなった人の事を「仏」と言います。

これほど誤解されている言葉は他にありませんが、亡くなる事が仏になる事では決してありません。

「仏」とは「自己の本当の姿に目覚めた人」の事で、仏の事を別名「覚者(目覚めた者)」と言うのは、その為です。

お釈迦さまやお大師さまのような、すでに目覚められたお方の事を、「先覚者」と言いますが、私達が迷いから目覚める事が出来るのは、先覚者が残して下さった仏法という道しるべがあるお陰です。

彼女が内なる仏に目覚め、本当の姿に立ちかえる為には、先覚者が残して下さった仏法とのご縁(法縁)が欠かせません。

仏法がなければ、この迷いが何を意味するのか、迷路を抜け出すにはどうすればよいのかが分らないからです。

内なる仏に目覚めた多くの先覚者が説かれた仏法という宝の山に触れて初めて、彼女の大いなる第一歩が始まるのです。

その意味で、彼女が迷いの袋小路に入ったのは、ただの偶然でも、運が悪かったからでもありません。

彼女の内なる仏(本当の自分)に目覚める千載一遇の好機が訪れたからこそ、そのようなお計らいを頂いたのです。彼女にとって、まさに内なる仏が目覚めるチャンス到来です。

そう悟っていく事が、内なる仏に目覚める大いなる第一歩となるのです。


知識と悟り(体験)の違い


迷いから抜け出し、進むべき道を自ら判断出来るようになるには、他人に判断を求めるのではなく、彼女自身が生まれ変わる事が先決であり、生まれ変われば自ら判断出来るようになると申しましたが、彼女が忘れてはならない事があります。

それは、自ら進むべき道を判断出来るようになるのは、あくまで内なる仏に目覚め、どのような不都合な結果をも在るがまま受け入れられる心になった時であり、その事を知識として知った時ではないという事です。

当たり前の事ですが、よく誤解されるお方がおられます。

知った段階で、すでに目的を達成したかのように錯覚されるお方がいますが、様々な体験を通してどんな不都合な事をも在るがまま受け入れられる心になる為には、まだまだ乗り越えなければいけない幾多の試練があります。

その試練を乗り越えた暁に、初めて彼女は生まれ変われるのであって、ただ知識として知っただけでは何も変わりません。

勿論、知る事が、生まれ変わるためのスタートである事は間違いありませんが、スタートはあくまでスタートであって、知る事と、行動して生まれ変わる事とは、根本的に違うのです。

ですから、もし自分で決断できない時は、まだその心に到達していないのだと悟らなければなりません。そして、一日も早くその心に到達出来るよう、精進してゆけばよいのです。


菩薩様とお遍路さんの会話


以前、菩薩様が、四国におられるご同行のお宅に法話に行かれた折の事です。

大勢の皆様が集まっておられる中に、若い女のお遍路さんが一人いました。彼女は、出家して尼僧になりたいという気持ちと、求婚してくれた男性と結婚したいという気持ちの狭間で揺れ動いていました。そこで、菩薩様にその事を相談なさったのです。

遍路─私はいま、結婚するべきか尼僧になるべきか分からなくて迷っています。
 菩薩─結婚とか色々な問題は私が判定するのではなくて、この結婚はしてもいいでしょうか、いけないでしょうかという判定は色々ありますが、そういう判定は仏法の中にはないという事です。法話
 すべては、大日如来の大きなみ心の中にあるということです。その大日如来のみ心の中まで心が及ばないでしょう。
 人間というものは一寸先も分からないのです。あなたの心が出来た心であれば、超えた心であれば、私はいつでも判定を下してあげましょう。「その結婚はやめておきなさい」とか、「その結婚はしてもいいですよ」とかね。
 そこまでの心になっていれば、いくらでも判定を下してあげます。でも、まだあなたの心が、そこまで出来ていないから判定は出来ないのです。
 何故かというと、私が判定を下した時に、もしあなたが不幸になったら、「何だ!」という事になるでしょう。
 遍路─いいえ、私は思いません。それがやはり仏さまの試練だと思います。
 菩薩─試練というか、何もかもが、仏様のお慈悲と思える心にならなければいけないのです。
 遍路─そうでも。私、もうそうなっています。
 菩薩─交通事故にあっても、「これがみ仏のお慈悲だ」と、寒い雪が降ってきても、その雪が人間に都合の悪い雪であっても、「あーこれもあり難い。私はこの雪で悟らせていただけるんだ」と、その雪で悟っていくという事です。
その様な心が出来ていれば、あなたに対し…
 遍路─そうです。私、もうそこまで悟れています。
 菩薩─そこまで悟れているのであれば、あなた自身が自分で決められる筈ですよ。
 遍路─私が自分で決められると言われるのですか? 聞法風景
 菩薩─そうです。そこまであなたの心が出来ているのであれば、私に相談することはありません。
 遍路─(沈黙)
 菩薩─相談するということは、まだその心が出来ていないという事です。自分で即決出来ないという心は、「私はもうそこまで行っています」と言っていても、まだ心がそこまで行っていないという事です。あなたは「もう心が出来ています」と言われるが、出来ていれば自分で決められる筈でしょ!
 遍路─そうですね。仏さまにお任せしているんですからね。
 菩薩─仏さまというより、自分の心の仏さまにね。そうしたら、その仏が答えを出すでしょう。その結婚はやめなさい、その結婚はよろしいという答えが出るでしょう。そうしたら私に聞く必要はないという事です。あなたがそこまでの心になっているなら、私に聞く必要はありません。だから、まだ超えた心になっていないという事です。
 遍路─(長い沈黙)

この会話を見れば、頭で理解している事(知識)と、悟っている事(体験)は根本的に違う事がよく分りますが、この説法は、整形手術をすべきか否かで悩んでいる相談者の女性にも、そっくりそのまま当てはまります。


仏法に判断なし


多くの皆様から様々なお悩みの相談を受ける際、いつも自分に言い聞かせている言葉があります。

それは、「仏法に判断なし」という言葉です。この言葉を理解していなければ適切なアドバイスは出来ないと思っているからです。

否、それどころか、知らず知らすの内に、誤ったアドバイスをして、相談者の迷いを益々深める結果を招く恐れさえあります。

繰り返しますが、我々僧侶が、進むべき道に迷う彼女に為すべきアドバイスは、占い師や霊感者のような「今のままで良いのか、整形手術をした方が良いのか」という二者択一的判断ではありません。

彼女が自分の本当の姿に目覚められるよう、そしてそれがいま彼女の進むべき道であり、彼女が救われる唯一の道である事を教え、一日も早くその願いが成就出来るよう手助けする事です。お遍路さん

どんな不都合な結果をも在るがまま受け入れられる心になるにはどうすればよいかを説き、その険しい道のりを無事に乗り越えられるよう様々な助言を与え、祈りの行によって支えてあげる事です。

要するに、彼女自身が進むべき道を自ら決断できるよう、道すじをつけてあげる事であり、それ以外に、我々僧侶が為すべき事はありません。

「仏法に判断なし」と言ったのは、その為です。

勿論、彼女がその心を成就出来るか否かは分りません。その成否は、ひとえに彼女の想いの深さにかかっているからです。

自分を変えたいと思う彼女の一念がどこまで切実かによって、成否が決まると言っても、過言ではないでしょう。

お芝居で言えば、主役はあくまで彼女自身であり、我々僧侶は脇役に過ぎません。

彼女が幸せになれるか否かの鍵は、彼女自身が握っており、彼女にしか自分を変えられないし、救えないのです。ですから、最後の決め手は、どこまで真剣に取り組もうとしているかという彼女の強い一念と不退転の決意にかかっています。

私は常々、ご同行の皆様に、「信仰は遊びではありません。真剣に法を聞いて実践して下さい」とお話していますが、彼女が生まれ変われるか否かは、まさに人生を賭けた真剣勝負であり、遊び半分で取り組んでいては決して成就出来ない人生の一大事なのです。

そんな我々のささやかな願いが彼女に伝われば、必ずや人生はより良き方向に向けて動き出し、大きな変化への第一歩となる筈です。

我田引水と言われるかも知れませんが、そうなれば、我々僧侶が為すべき衆生済度というお役目の一つは果たせたと思っています。

合掌

平成26年12月7日


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