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悟り(仏法)こそ救いなり(6)



因縁を解く以外に道はない


「内なる仏に目覚め、生まれ変わらなければ、彼女の人生は変わらないし、変えられない。変えられるのは彼女しかいない」と申しましたが、自分を変える為には、どうしても避けて通れない道があります。

それは、彼女自身が背負う因縁(縁起)です。

因縁とは、原因(因)と条件(縁)の事で、例えば、一粒の種(原因)があっても、そのままでは芽も出ませんし、実も結びません。

土や太陽や水や、様々な条件が整って初めて花を咲かせ、実を結ぶように、彼女という原因に、様々な条件(因縁)が積み重さなって、今の彼女があります。

御法歌『頼め彼岸へ法のふね』の中に、
  昨日を背負った 今日の日は
    明日を孕んで 過ぎてゆく
    大事にしよう 今日の日を
 という法歌がありますが、私達はみな、昨日という過去を背負いながら、二度とめぐり合う事の出来ない今という一瞬を、明日の未来に向かって生きているのです。

誰もがみな、過去に作ってきた様々な因縁を背負って生きているのであり、過去の因縁から逃れられる人など一人もいません。

これが、生きる時代と生きる世界の如何に拘らず、誰もが必ず認めなければならない縁起(因縁生起)の理法であり、お釈迦さまが悟られたこの世の普遍的真理です。

お釈迦さまは、
  過去の因を知らんと欲せば、現在の果を見よ
  未来の果を知らんと欲せば、現在の因を見よ
 と説いておられますが、もし今のわが身やわが人生に不満があり、今の境遇が自分にとって不都合であるなら、それは、自分が背負っている因縁によってもたらされた結果(縁起)ですから、その因縁を解く以外に救われる道はありません。


「因縁を切る」という考え方


因縁(縁起)を糸に譬えれば、自分にとって不都合な今という結果は、因縁の糸が絡まっている状態と言っていいでしょう。

その絡まった因縁の糸を解きほぐし、本来の在るべき姿に戻す事を「因縁を解く」と言いますが、よく似た言葉に「因縁を切る」という言葉があります。

「因縁を解く」も「因縁を切る」も余り違いはないように見えますが、この二つは根本的に違います。

そもそも因縁というものは、解く事は出来ても、切る事は出来ません。何故なら、私たちはみな、因縁によって生かされているからです。

太陽とも地球とも、空とも海とも空気とも風とも、花とも緑とも水とも土とも、すべて因縁によって結ばれています。因縁によって生かされ、因縁によって支えられているのです。

因縁によって親子、夫婦、兄弟姉妹となっているのですから、その因縁が切れる筈がありませんし、切っていい筈もありません。

よくテレビドラマなどで、親の反対を押し切って結婚しようとする娘に対し、父親が「どうしても結婚したければ、親子の縁を切る」と云って反対する場面を見かけますが、親子の因縁は決して切れるものではありません。

オギャーと生まれてくるのも因縁、死んでいくのも因縁です。生まれてくる因縁は好都合、死んでゆく因縁は不都合だと考えるお方が殆どだろうと思いますが、だからと言って、不都合な因縁だけを切り取る事が出来るでしょうか?

都合の悪い方を切り捨て、都合の良いものだけを取り上げようとするのが、「因縁を切る」という考え方で、占い師や霊感者や占星術師がよく使う言葉ですが、言うまでもなく生と死は一体であり、切り離す事など不可能です。

ですから、もし不都合な死という因縁を切りたいなら、好都合な生という因縁も一緒に切らねばなりません。この世へ生まれてこなければ、問題はすべて解決するのです。

しかし、そんな都合の良い事が出来る筈もありません。だとすれば、何度もお話しているように、死という因縁が不都合なら、好都合な因縁に変わるよう、死に対する自分の受け止め方を変える以外にありません。それが、「因縁を解く」という仏法の考え方です。

世間には、親子、夫婦、兄弟姉妹でありながら、憎しみ合い、傷つけ合いながら生きている人々もいますが、何故、縁あって親子、夫婦、兄弟姉妹となった者同士が、憎しみ合い、傷つけ合わねばならないのかと言えば、お互いが背負っている因縁の糸が絡み合って、どうにもならなくなっているからです。

夫婦としての因縁は、離婚すれば切れるかも知れませんが、親子、兄弟姉妹の因縁は、気に入らないからと言って簡単に切れるものではありません。

その絡まっている因縁の糸を解きほぐし、本来の在るべき姿に戻さなければ、根本的な解決にはならないのです。


因縁を解くとは?


例えば、相談者の彼女がAさんとBさんの二人から求婚されたとしましょう。

「整形手術をすべきか否か」で迷っている今の彼女なら、どちらの男性と結婚すれば幸せになれるかを知りたいと思うでしょうが、大切なのは、どちらの男性と結婚すれば幸せになれるかを知る事ではありません。

何故かと言えば、自分が背負っている因縁を抜きにして、どちらの男性と結婚すべきかを判断しても無意味だからです。

彼女がいま自らに問わねばならないのは、「自分の心はいま、どんな不都合な結果をも在るがまま受け入れられる心なのか。それとも不都合な結果は受け入れられない心なのか」という事です。

もし後者の心なら、残念ながら、Aさんと結婚しても、Bさんと結婚しても、幸せになれるという保証はありません。幸せになれるかも知れませんが、なれないかも知れません。

つまり、「当るも八卦、当らぬも八卦」で、結婚は彼女にとって、まさに賭け事と同じになってしまいます。

しかし、前者の心なら、どちらの男性と結婚しても、間違いなく幸せになれるでしょう。何故なら、彼女には自分が進むべき道、結婚すべき相手がハッキリ見えている筈だからです。

進むべき道がハッキリ見えているという事は、自分が背負う因縁が解けているという事です。

「整形手術をした方がよいか、しない方がよいか」「Aさんと結婚した方がよいか、Bさんと結婚した方がよいか」で迷うのは、まだ因縁が解けていないからです。

前にも言ったように、大切な事は、誰と結婚すれば幸せになれるかではなく、誰と結婚しても在るがままを受入れられる心を養い、背負っている因縁を解く事です。

それが、彼女が「生まれ変わる」という意味であり、「内なる仏が目覚める」という事です。

もし生まれ変わる事が出来れば、彼女の人生は大きく変わってゆきます。因縁が解ければ、Aさんと結婚しても、Bさんと結婚しても、間違いなく幸せになれるでしょう。

しかし、変わらなければ、どちらの道を選んでも、どちらの男性と結婚しても、結果は同じで、何も変わらないでしょう。


付くも因縁付かれるも因縁


「人生は重き荷を背負うて遠き道を行くが如し」と言われるように、私達はみな、目に見えない因縁という重き荷物をその肩に背負いながら、人生という遠き道のりを、死と言うゴールに向かって歩いている旅人です。

その因縁という荷物は、自分の身に付いているものですから、自分の行く所へどこまでも付いてきます。自分が右へ行けば右へ、左へ行けば左へ付いて来るのです。

『道歌集』の中に、
  人の世は 付かれる因縁付く因縁
    みんな前生の 因縁なりけり
  人はみな 己がつくりし因縁の
    あとをたずねて 道行く如し
 という法歌がありますが、因縁を背負ったまま、右の道を選んでも、左の道を選んでも、Aさんを選んでも、Bさんを選んでも、結果は同じなのです。

ですから、仏法には、右へ行きなさい、左へ行きなさい、Aさんと結婚しなさい、Bさんと結婚しなさいというような判断はありません。

古歌に、
  波の音 嫌じゃと思うて山ごもり
    声色変えて 松風ぞ吹く
 と詠われているように、波の音が耳障りだと言って山にこもっても、今度は松風の音に悩まされなければならないのです。

先ず自分自身が背負っている絡みついた因縁を解き、生まれ変わらない限り、結局どちらの道を選んでも、相手を変えても、場所を変えても、同じなのです。


自分を救えるのは自分しかいない


彼女が背負っている因縁は、Aさんと結婚すればAさんとの人生に、Bさんと結婚すればBさんとの人生に付いてきます。

ですから、Aさんと結婚するから幸せになり、Bさんと結婚するから不幸になるのでも、その反対でもありません。自分が生まれ変われるか否か、背負っている因縁を解けるか否かで、幸不幸が決まるのです。

因縁を解いて生まれ変わらなければ、整形しても、しなくても、結婚しても、しなくても、今までと同じ道をたどるだけです。

これからの人生がかかっていますから、彼女が悩むのも無理はなく、それを他人が責める事など出来ません。

しかし、だからと言って、どちらの道へ進めばよいかという二者択一的判断を求めている限り、彼女の人生は何も変わりませんから、変えたいなら、まず背負っている因縁を解いて、生まれ変わらなければならないのです。

自分を救えるのは、自分しかいませんし、最後の決断が出来るのも、自分しかいないのです。

彼女には、一刻も早くその事に気付いて頂きたいと願わずにはいられません。

合掌

平成26年12月17日


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