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宗教は人にあり(4)─神仏の絶対不可侵性とは─仏の自分に出逢うため私たちは、自分で自分を見る事が出来ません。皆さんは、毎日、鏡に映った自分の姿をご覧になると思いますが、自分を見ようと思えば、鏡に映った自分を見る以外に方法はありません。 それと同じように、仏の自分に出会う為には、仏の自分を映し出してくれる鏡が必要です。 仏の自分を映す鏡とは、法(この世の真理)であり、法の鏡に映った仏の自分を象ったものが仏像です。 つまり、仏像を拝むとは、法(真理)の鏡に映った仏の自分を拝む事であり、仏教徒は、仏像を通して、自分の奥底に眠るもう一人の自分(仏の自分)と対面しているのです。 イスラム教徒は、自分達が創造主である神を拝むのと同じように、仏教徒も、創造主的な仏を拝んでいるのだろうと考えているのかも知れませんが、これは大きな誤解と言わねばなりません。 京仏師の松久朋琳師は、『仏の聲を彫る』の中で、次のように述べておられます。 木の中の仏と出会うということと、自分の仏性と出会うこととは、同時なんですな。 最初のうちは、自己とはつまらんものだと思うてます。自分よりもっともっとすばらしい、いいものを彫りたいと思います。 そういうものを目指して、一生懸命やればやる程自分になってしまうのです。 全然自分に似ないものを彫りたい、私から逃げ出したいと思うても、どうしても自分自身から自分は逃げられまへん。仏性という圧力がグッときて、逃がさしません。 自分と違うものをと思うて、ドンドン彫っていく。そうして出来上がってみると、全部自分になってしまってます。やっと出来上がったと得心したところが、自分になってしもてます。 わたしそっくりにならんと、自分で出来た気にならんのです。自分になったときに、初めて、“出けてるな”と思うんですな。 そうしているうちに、これはわたしの知らないわたしが、もう一つわたしの奥にいて、わたしを見つめているのだな、ということを、フッと分からせて貰ろたんです。 わたしはその時、仏性というわたしの内面に突き当たっていたんですな。それが、仏の姿になって、私の前に出てきていたのです。 それが、あるとき、“ああそうやったのか”と、得心が出来たのです。 松久師が述べているように、仏教徒が仏像を拝むのは、イスラム教徒が絶対に成る事の出来ない創造主を拝むように仏像を拝んでいるのではなく、自分の中のもう一人の自分(仏の自分)と対面する為に拝んでいるのです。 仏師の立場から言えば、木の中から仏を彫りだす作業を通して、仏の自分に対面しているのです。 ですから、唯一神とイスラム教徒の関係のように、仏と自分との間には越えがたい壁はありませんし、断絶もしていません。 イスラム教徒から言えば、人間が創造主になる事などありえませんし、それは神を冒涜するも甚だしい行為になりますが、仏教徒が仏になるのは当たり前なのです。 何故なら、私達は本来仏であり、今はただその事に気づいていないだけだからです。 仏教徒が仏像を拝むのは、イスラム教徒が言うように、自分ではない神を像に刻み、偶像として拝んでいるのでは決してない事を、一人でも多くの人に知って頂きたいと思います。 草木また成ず『涅槃経』の中に、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という言葉があります。 すべての人々は、仏となるべき本性(仏性)を具えているというこの考え方は、大乗仏教の根本思想の一つですが、この思想は、やがて「仏性を具えているのは人間だけではない」という思想にまで進化してゆきます。 お大師様は、『吽字義(うんじぎ)』の中で、「心がないと思われている草木ですら成仏するのだから、人間が成仏しない筈がない(草木また成ず、いかにいわんや有情をや)」と説いておられますが、草木にさえ仏性があるという教え方は、日本で開花し実を結んだ独自の教えと言っていいでしょう。 日本人は昔から、木や草や山や海や川や石など、森羅万象の中に神の存在を感じ、畏敬の念を抱きながら、八百万の神々と共に、大自然の懐に抱かれて生きてきました。 そんな風土の中で育った日本人が、「一切衆生悉有仏性」を説く大乗仏教の思想を受け入れ、更に進化させていったとしても何ら不思議はありません。 「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」というような考え方が生まれてきたのも、長年に亘って培われてきた日本の風土や日本人の気質を考えれば当然でしょう。 一神教のように、大自然を心のないただの物質に過ぎないと見る考え方は、少なくとも我々日本人の心の中にはありません。 要するに、仏教を偶像崇拝と言って批判するイスラム教徒の非難は、少なくとも「草木また成ず」という考え方が根底にある仏教には当てはまらないのです。 人間だけではなく、自然界すべてに仏性があり、仏として光り輝いているという考え方からすれば、仏像は、石や木や金属を心のないただの物質と見なして作ったものではなく、それらの中に流れる仏のいのち(仏性)を、形として現したものである事が、よく分ると思います。 つまり、石や木や金属や、様々な物の中から仏像という形が生まれてくるのは、至極当然なのです。 その事を肌で実感してこられたからこそ、松久朋琳師は、「仏像が偶像なのではなく、自然を心のない物としか見ることの出来ない殺伐とした心が、仏像を偶像化してしまうのです」と述べておられるのです。 私達は、仏像を偶像にするもしないも、すべて人の心の為せる業である事を知らなければなりません。 松久師は、次のようにも仰っておられます。 仏さまは、大自然の中にも、わたしら一人一人の胸の内にもおられます。合掌する心があれば、どこにでもおられます。 言い換えれば、その心がなければ、野を歩こうと、お寺へ参ろうと、座っていようと、仏さまはいらっしゃいません。 大切なことは、仏さまを拝む気持ち、安置する心具合と違いますやろか。 「仏像を拝むなんていうことは、偶像崇拝やないか」と言わはる方がおられます。けれども、それはちょっと違うと思いますのや。逆やないか、と思うのですわ。 そこに本当にみ仏が宿っているのだと信ずる心、求める心が、仏像を生み出したと思いますのや。 山にも川にも、草にも木にも、仏の慈悲の姿を観る、そんなきれいな素直な心が、仏像を生み出したのと違いますやろか。 自然をものとしか見られない寒む寒むとした心が、かえって仏像を偶像にしてしもたと思うのですわ。 人間はみんな「絶対」というすばらしいものを、わたしらの心の中にくくりつけとるのです。「仏性」という絶対なものを。大きな大きなすばらしい宝を持っておりますのや。 それに気がつかんだけなのです。あんまり近いものは、分からんのですな。 物でも、自分から離れていれば見えますけれど、目にくっつけてしもたら、もう何が何ンや、わけが分からしません。 富士山かて、離れて見ていればこそ、美しくも大きくも見えるのですな。それが、富士山に登ったら、“どこに富士山あるのかいな”ということになるのと一緒です。近いもの程分からないのですな。 それと同じことで、自分は自分が一番わかりません。人のことは分かるけれども、自分のことは分かりまへん。 まして仏性というもんは、自分のなおその奥にある。自分が分からないのにその奥にある仏性なんて、わかる訳がない。また、心の中のものを引っ張り出してみるということもできません。 それで、これを仏像という形にして皆さんの前に置く。それを離れて拝みますと、ああ、仏さんてこういうものか、心の中にある永遠不滅の存在とはこういうものかということがわかって頂ける。 いまここに肉体としてある自分の姿は仮りの姿であって、本体というものはみ仏のように永遠不滅のものであったのか……、と悟る、これがみ仏を拝むということの、本当の姿やと思うのです。 自分の姿を自分が拝む。 わたしはそれを、長い間み仏を彫りまいらせる中で教えて貰うたのです。 超越的神と内在的仏との違いイスラム教徒が拝む創造主としての唯一絶対神が、この宇宙に存在する何物でもなく、それらを超えた超越的存在であるとすれば、仏教徒が拝む仏は、この宇宙に存在するありとあらゆるものの中におわします内在的存在と言っていいでしょう。 自分を含め、ありとあらゆるものの中におわします内在的存在であるみ仏とまみえる為、仏教徒は深く自己の内面を掘り下げるべく信心に励み、仏師は木の中のみ仏をお迎えするべく、こつこつと鑿をふるうのです。 松久師は、み仏を刻んでいると、自分と木の中のみ仏が渾然一体となって、自分が仏なのか、仏が自分なのか分からなくなってしまうと述べておられますが、これは一神教的考え方しかない人々には、到底理解出来ない境地ではないかと思います。 世間ではよく、仏を刻んでいるわたしをわたしやと、つまり松久朋琳という名を名乗り、仏師という経験を持って仏像と取り組んでいるのがわたしやと思います。そして、出来たみ仏を単なる木の仏像やないかと言います。 ところが逆なんですわ。それがほんまのわたしなんですね。彫っていたのは、単なる職人にすぎない、松久朋琳という職人です。仏性として出てきたみ仏、これがほんまのわたしですのや。 どうしてそういうことが言えるのか。 仏像に現れた自分というものは、すでに自分ではないのです。仏像を彫りまいらすことによって、わたしの心の奥底にある仏性が、仏像という形になって現れたのです。 その仏性こそ、お釈迦さんが、「凡ての人に仏性あり」と言われた本当のわたしなんですな。 わたしの顔をわたしが削ってる。そうすると削られている仏さんがわたしなのか、削っているわたしがほんまのわたしなのか、わからんようになってきます。 無心に削っているうちに、削っているわたしと、削られているわたしの仏とが融然と一体となってしまう。合一してしまう。これが、仏師の一番の生粋のところ やないかと思います。 そういう境地にスウーッと入ってしまう。そうすると、わたしが仏か、仏がわたしかわからんようになってしまいます。そういう状態になってしまいます。 これが仏づくりの心やないか、そないにわたしには思えるのです。 タリバンが爆破したバーミヤンの巨大石仏も、彼らから見れば、石を削ってつくった、ただの石の建造物に過ぎません。 しかし、仏教徒が見れば、石仏からは、いくら汲んでも尽きる事のないみ仏のいのちの泉がこんこんと湧き出ているのです。 石仏だけではありません。木の仏も、金属の仏も、乾漆の仏も、仏画の仏も、そして、ありとあらゆるものの中におわします仏も、みな光を放ち、世界中を照らして下さっているのです。 勿論、諸行無常の真理の中にある石仏である限りは、自然に風化し、やがては崩れ去る定めにあります。その流れをくい止める事は、誰にも出来ません。 タリバンに爆破される前、石仏の顔の部分はすでになく、装飾も剥げ落ちて、往時の姿は偲ぶべくもありませんでしたが、イスラム教徒の手にかからなくても、いずれはそうなる定めにあります。 しかし、崩れ去っても、それは目に見える外観に過ぎません。たとえイスラム教徒の手によって顔を破壊され、装飾が剥がされても、目に見えない仏のいのちは尽きる事なく、永遠に生き続けているのです。 爆破しようが、何をしようが、彼らは、無駄な抵抗をしているに過ぎません。 衆生秘密と如来秘密何故タリバンは、無駄な抵抗であるにも拘らず、石仏破壊という行動に出たのでしょうか。 その答えが、お大師様の書かれた『般若心経秘鍵』の中に書かれています。 「名医は、道端の雑草でさえ薬として使い、名工はただの鉱石から宝を見出す。雑草とするか薬とするか、鉱石とするか宝石とするか、それを見出す深い智慧 の眼を持っているかいないかは、誰の責任であろうか」 彼らが、巨大石仏を、石で造られた偶像としてしか見られないのは、ありとあらゆるものの中にまします仏のいのちを汲みとる智慧の眼、悟りの眼を持たず、ただ外見だけに目を奪われているからです。 智慧の眼、悟りの眼を持っているか、持っていないか、たったそれだけの違いに過ぎません。 いみじくもタリバンの石仏破壊は、心の眼、智慧の眼、悟りの眼を持たない人間の悲哀を、世界中の人々の前にさらけ出す結果となりましたが、彼らは、石仏破壊が無駄な抵抗であるとは夢にも思っていませんし、自己の内におわします仏にも全く気づいていません。 お大師様は、『弁顕密二教論』の中で、「 いわゆる秘密には、二つの意味がある。一つは衆生秘密、もう一つは如来秘密である」と説いておられますが、ここに言う衆生秘密(しゅじょうひみつ)とは、智慧の眼、悟りの眼を持たないために自らの真相に気づいていない事を言います。 つまり、智慧の眼、悟りの眼を持たない者には、あたかも悟りの世界が隠されているかのように見えるけれども、悟りの世界(自己の真相)はいつも開かれており、ただ智慧の眼、悟りの眼が曇っている為に見えないだけなのです。 それに対し、「如来秘密(にょらいひみつ)」とは、智慧の眼、悟りの眼を持たない者に真相を明らかにしても、理解出来ないだけでなく、かえって曲解する恐れがあるから、そのような場合は、み仏自らあえて真相を明らかにしない事を言います。 真理は常に私たちの眼の前に開かれていますが、それを肉眼で見る事は出来ません。 心を研ぎ澄まし、智慧の眼、悟りの眼を磨かなければ、たとえ目の前の真理であっても永遠に見る事は出来ません。 タリバンのように、心の眼、智慧の眼、悟りの眼を持たない人々にとっては、自己の真相も、この世の真理も、永遠に秘密のままであり続けるのです。 ご存じのように、釈尊は、菩提樹の下でこの世の真理を悟られ、仏陀と成られましたが、真理は、釈尊が悟られる以前から、この世に存在し、開かれていました。 釈尊は、その真理を悟られ、わが内に眠る仏の自己と対面された人類最初のお方だったに過ぎません。 心の眼、智慧の眼、悟りの眼を磨かなければ、たとえ真理の世界が、目の前に開かれていても、存在しないのと同じであり、見ることも、聞くことも、触れる事も出来ず、永遠に秘密のベールに覆われたままなのです。 宗教は人にあり同じものを見ても、その真相が見える人と見えない人がいるように、同じ仏像を見ても、ただの偶像にしか見えない人と、その中に輝く仏のいのちを見出せる人がいます。 その違いは、智慧の眼、悟りの眼が開けているか否かにかかっています。 タリバンがバーミヤン石仏を偶像だとして破壊した事は大いに非難されるべきですが、所詮この世に存在するものは、何であれ滅びる定めにあり、彼らが破壊しなくても、いずれは崩れ去ったでしょう。 残念なのは、彼らが真相を観る心の眼、智慧の眼、悟りの眼を持たない事ですが、彼らの行動を見ていると、宗教というものは、教えによって決まるというより、教えを受け、実践する人によって決まる事がよく分ります。 お大師様が、『般若心経秘鍵』の中で「顕密は人に在り、声字(しょうじ)は即ち非なり」と説いておられる意味も、そこにあります。 「顕密」とは、顕教(密教以外の教え)と密教の事ですが、両者の違いは、例えば、般若心経の解釈一つにもよく現れています。 顕教では、般若心経は、般若の「空(くう)」を解き明かした大般若経六百巻の心髄と解釈されていますが、お大師様は、大般若菩薩の悟りの境界を解き明かした経典と説いておられます。 つまり、顕教が、空(無我)を説いて自我を一切否定し、どこにも自己と言えるものはないと説いている経典が般若経であり、その心髄が般若心経であるとしているのに対し、お大師様は、自己と言えるものが無いのではなく、自己と言えないものこそどこにも無いではないか、一切が自己である」として、全ての中に自己を見出せと説いておられるのです。 そして、一切に内在する真実の自己を見出す修行方法が、所謂「有相(うそう)の三密」、「無相(むそう)の三密」と言われるものです。 「有相の三密」とは、身口意(言行想)、つまり口に真言を唱え、手に印を結び、心に本尊を念じ、悟りの境地に住する修行方法で、それを日々の生活の中において実践する事、つまり、口に嘘偽りのない言葉を使い、み仏の心に適う行いをし、法(真理)に添った思い方をするのが、「無相の三密」です。 お大師様の言われる相互礼拝、相互供養、同行二人(どうぎょうににん)の実践と言ってもいいでしょうが、要するに、一切が自己(仏)であるとの信念に住し、口(言葉)と行(行動)と想(思い)の全てを通して、一切を肯定し、礼拝し、供養し、敬っていこうという事です。 まさに全肯定主義ともいえる生命思想で、この考え方に立てば、自分と主義主張が異なるからと言って、ISILが行っているような無差別テロは絶対に起こせません。何故なら、無辜の人々を無差別に殺害する事は、自己を殺すに等しい行為だからです。 2015年4月7日
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