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第二の矢を受けず(1)お釈迦様と男の対話或る日、多くの人々から尊敬を集めているお釈迦様の事を妬ましく思う男が、お釈迦様に恥をかかせようと、人々が見ている前で罵詈雑言を浴びせかけました。 「罵詈雑言を浴びせれば、腹を立てて罵詈雑言を返してくるに違いない。そうすれば、お釈迦様を尊敬している人々も見捨てて去っていくだろう」と思ったのです。 ところが、お釈迦様は、腹を立てるどころか、ただ心静かに聞いておられるだけでした。 その内、罵詈雑言を浴びせていた男の方が疲れ果ててしまい、「これだけ言っても、何故腹を立てないのだ」と言って、その場に座り込んでしまいました。 お釈迦様は、その男にこうおっしゃいました。 「もし他人に贈り物をしようとして、その相手が受け取らなかった時、その贈り物は一体誰のものであろうか」 その男は、 「言うまでもないだろう。相手が受け取らなかったら、贈ろうとした者のものだ。分り切った事を聞くな!」 と答えましたが、そう言った瞬間、ハッと気が付いたのです。 間髪入れず、お釈迦様は、こうおっしゃいました。 「その通りだよ。今、あなたは私のことをひどく罵った。でも、私はその罵りを少しも受け取らなかった。だから、あなたが言った言葉はすべて、あなた自身が受け取ることになるのだよ」 仏教に、「第二の矢を受けず」という言葉があります。 男から浴びせられた罵詈雑言は、第一の矢です。もしお釈迦様が、「目には目、歯には歯」とばかりに、その罵詈雑言に対し、同じように罵詈雑言を返していれば、第二の矢を受けた事になります。 しかし、お釈迦様は、第二の矢を受けませんでした。その罵詈雑言をそのまま腹に収め、悟りに変えて、浄化されたのです。 お釈迦様が受け取らなかったその罵詈雑言は誰のものになるのでしょうか? 言うまでもありません。そのまま、その男に返っていくのです。 以前、お四国霊場へ行った時、同じような体験をした事があります。 托鉢姿で宇和島市内の国道を歩いていると、対向車線を走ってきた一台の車が私の側に横付けし、いきなり「真言亡国、四国へ来るな!」と叫びながら絡んで来たのです。 少しお酒を飲んでいる様子で、赤ら顔の男性を、助手席の女性が懸命になだめていましたが、なにやら訳の分らない事を言いながら、走り去って行きました。 「真言亡国、四国へ来るな!」という言葉が、まさに「第一の矢」です。 しかし、私は、「真言亡国、四国へ来るな!」と言われても、その言葉を受け取りませんでした。「第二の矢」を受けなかったのです。 菩薩様が残されたお悟りの歌を集めた『道歌集』の中に、 み仏の心を象徴する蓮華「第二の矢を受けず」という教えを象徴しているのが、み仏が台座としておられる蓮華です。 蓮華は、汚れた泥沼に根を張りながら一切染まらず、世にも綺麗な花を咲かせます。それは、蓮華自体が、あらゆる汚れを濾過する力を持っているからです。 蓮華が根を張る泥沼は、譬えれば、お釈迦様や私が浴びせられた罵詈雑言です。蓮華がいかなる汚れにも染まらないように、どんなに罵詈雑言を浴びせられても、どんな憎しみの言葉をかけられても、それに染まらず、浄化して世にも綺麗な菩提(悟り)の花を咲かせるのが、み仏の心です。 目には目、歯には歯、仇には仇を返していては、菩提(悟り)の花は永遠に咲きません。 蓮華は、どんな穢れにも染まらず浄化し、その相手さえも包み込み、怒りや憎しみを浄化し、憎い相手を拝めるまでの慈悲の心を養う事の大切さを教えているのです。 これは、菩薩様が説かれた「因縁を解く」道でもあります。 様々な因縁が絡み合って出逢った相手だからこそ、たとえどんなに不都合な相手であっても、どんなに罵詈雑言を浴びせてくる相手であっても、「第二の矢」を受けてはならないし、「第二の矢」を返してはならないのです。 罵詈雑言を浴びせられれば、罵詈雑言ではなく、祈りの心、慈悲の心を返さなければなりません。それによって、受けた汚れ(罵詈雑言)は浄化され、「第二の矢」は消えてゆくのです。仇に仇を返していては、背負っている因縁は解けませんし、自ら「第二の矢」を受け止めなければなりません。 憎しみに憎しみを返す心は新たな因縁を作り、更なる憎しみを量産するだけですが、憎しみを祈りに変える心は、因縁を解き、福の神を招いてくれます。 私達が毎日させて頂いている夢殿の御回廊廻りの行は、その心を作らせて頂く為の行と言っても過言ではありません。 罵詈雑言を浴びせられても、憎しみの言葉をかけられても、憎しみの心を返すのではなく、それを悟りに変え、相手の救いを祈らせて頂くまでの心を成就すれば、必ず相手との因縁も解け、自他共に救われていくのです。 或る男性からのご相談先般、東京近郊に住む男性から、「ご相談したい事があるのでお参りさせて下さい」とのメールを頂きました。お参りの当日、次のようなメールが送られてきました。 30分前の特急に乗れるはずでしたが、早速悪因縁が出てしまい乗れませんでした。 この男性は、電車に乗り遅れた事を悪因縁と捉え、怨念の仕業と考える霊感的な考え方に執われておられるようなので、次のメールを差し上げました。 メールを読ませて頂きましたが、このメールに、私と貴方の考え方の違いがよく現れていると思います。 幸不幸は誰が決めるのか?この男性のように、「30分前の電車に乗り遅れたのは、悪因縁の仕業だ」と受け止めるか、それとも「いや、乗り遅れて良かったのだ」と受け止めるか、受け止め方は人それぞれですが、受け止め方次第で私達が生きる世界も大きく変わっていく事だけは、心得ておかねばなりません。 御巣鷹山に墜落した日航機に乗る予定だったお笑いタレントの明石家さんまさんが、たまたま仕事が早く終わったため、その前の便に乗り換えて九死に一生を得た話は有名ですが、自分の予定通りにいく事が善い結果になるとは限りませんし、予定通りにいかない事が悪い結果を招くとも決まっていません。 この相談者の男性は、電車に乗り遅れ、予定通りに行かなかった事を悪因縁と捉え、「怨念に祟られているのだ」と思い込んでおられるのですが、乗り遅れない方が良かったのか、乗り遅れた方が良かったのかは、誰にも分りません。 分らないからこそ、どのような不都合な結果であっても、その事実を前向きに受け止め、これからの人生に活かしていく事が大切ではないかと思います。 「また悪因縁に祟られた」と受け止め、正体の分らない怨念のせいにするのか、それとも、「乗り遅れて良かったのだ」と前向きに受け止め、感謝していくのか、それを決めるのは自分自身です。 将来の自分の人生を決められるのは、自分しかいません。 どのように不都合な事があっても、予定通りに行かなくても、物事を前向きに受け止め、感謝していく姿勢がなければ、福を招き入れる事はできません。 「第二の矢を受けず」という教えに照らせば、男性が電車に乗り遅れたのは、第一の矢です。 この男性は、それを「悪因縁の仕業だ」と決め付け、自ら新たな苦しみの原因を作っているのですが、男性が受けている苦しみは、受けなくてもよい第二の矢なのです。 もし第二の矢を受けたくなければ、電車に乗り遅れた事を前向きに受け止め、悟りに変えていくしかありません。 そうすれば「これでよかったのだ」という納得が生まれ、人生も自ずと好転していくのです。 合掌 2017年11月18日 第二の矢を受けず(1) | ||
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南天 |
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