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生きる目的を見失っているあなたへ(5)判断を求める人々法徳寺のWebsiteをご覧になった皆様から、よく人生相談メールやお電話を頂きますが、それらの皆様にほぼ共通している事があります。 それは、何らかの判断を求め、答えを期待してメールやお電話をして来られるという事です。 先日も、進むべき幾つもの選択肢に迷われ、電話をして来られた女性がおられましたが、若い頃の私も同じでしたので、迷いに迷った挙句、藁にもすがる思いでメールや電話をして来られるお気持ちはよく分ります。 しかし、仏法には、幾つもの選択肢の中から最良の道を選び、どの道を進めばよいかを判断するという概念がありません。何故かと言えば、進むべき道を指し示してもその方を救う事は出来ず、根本的な解決にはならないからです。 その事が分っていながら、あえて判断を下す事は、その方の迷いを更に深め、救いから遠ざける事になります。 道に迷っている方に、進むべき道を示す事がその方の救いにつながるなら、喜んでそうしたいといつも思いますが、その方の根本的な救いにつながらない以上、幾ら判断を求められても、判断を下す事は出来ないのです。 迷いがない草花何故人は道に迷うのでしょうか?それは、進むべき道が幾つもあるからです。 先日電話をして来られた女性も、進むべき道が一つしかなければ迷わなかったでしょうし、電話もして来られなかったでしょう。 様々な事に迷う人間と対照的なのが大自然の草花たちです。 草花は、どんなに厳しい冬であっても、春になれば忘れずにちゃんと芽を出します。一見可憐でひ弱そうに見えますが、その生き方はたくましく、筋が通っています。 何故ひ弱そうに見える草花が、たくましく生きていけるのかと言えば、草花には生きる事への迷いが一切ないからです。 草花たちは、生まれながらにして、生きるべき道を知っています。 ご承知のように、草花には、太陽の光に向かおうとする「向日性」(こうじつせい)と言う本能的性質が具わっています。この性質がないと草花たちは生きていけません。 今日は太陽に顔を向けようか、それとも背を向けようか、どちらに向こうかと迷っている草花は一つもありません。 どんな暗闇の中に置かれても、必ず光を探し、光が射す方向へ顔を向けようとします。光の方向に顔を向ける事にかけては、一切の迷いがありません。 どんなにひ弱く見える草花でも、たくましく生きてゆけるのは、その本能のお陰ですが、それに比べ、人間はどうでしょうか。 今日はどう生きようか、明日はどう生きようか、あっちにフラフラ、こちらにフラフラと絶えず揺れ動き、迷いっぱなしです。 心が定まらず、様々な計らいや分別をして自ら作らなくてもよい不安を作り、迷いの輪を際限なく拡げているのが、人間という生き物なのです。 迷いを深める占いや霊感の判断先日電話して来られた女性も、進むべき道が幾つもあり、自分では答えが出せないため、判断を求めて電話をして来られたのですが、先ほどもお話したように、仏法には、進むべき道を判断するという概念がありません。 この点が占い、霊感と根本的に違うところと言っていいでしょうが、何故仏法では、占いや霊感のような判断をしないのか、例を挙げてお話しましょう。 極楽浄土を目指して旅をしている「極楽望(ごくらくのぞむ)」という名の男がいました。ふと前方を見ると、道が二つに分かれています。右へ行くべきか、左へ行くべきか、迷っていると、そこに占い師の翁と霊感者の老婆がやってきました。 極楽望氏が、二人に、どちらの道を行けば極楽へたどり着けるかと尋ねたところ、占い師の翁は、「極楽へ行きたければ、右の道を行きなさい。左へ行けば、大きな落とし穴があるから止めた方がよい」と教えてくれました。 ところが、霊感者の老婆に尋ねると、「いや、極楽へ行きたいなら、左の道を行きなさい。右へ行けば、恐ろしい化け物がいるから、命を落とすかも知れん」と教えてくれました。 翁の言葉を信じて右へ行けば、落とし穴に落ちる危険性はない代わりに、化け物に遭遇する恐れがあり、老婆の言葉を信じて左へ行けば、化け物には遇わないものの、落とし穴に落ちて命を落とすかも知れません。 どちらの言葉を信じても、落とし穴に落ちるか、恐ろしい化け物に命をとられるか、道は二つに一つしかありません。 落とし穴に落ちたくありませんし、化け物に命を取られるのも嫌です。しかし、極楽浄土への道も諦めたくありません。 結局、極楽望氏は、どちらへ行けばよいのか益々分からなくなり、以前にも増して迷いを深める結果になってしまったのです。 大切な事は何かこの例え話は、幾つかの選択肢の中から最良の道を選ぼうとする占いや霊感による判断が、真の救い(極楽浄土)につながらぬばかりか、一層迷いを深める恐れがある事を示唆しています。 先日電話をして来られた女性も、実は極楽望氏と同じ状況におられたのです。 私が求められた判断をしなかったのは、極楽望氏と同じように、迷いを更に深める恐れがあったからですが、仮に私がその女性の求めに応じて進むべき道を判断したとしたら、どうだったでしょうか?その女性は私の判断に納得されたでしょうか? 恐らく納得されなかったでしょう。 極楽望氏が前に進めなくなったのは、翁の占いが正しいという確証もなければ、老婆の霊感が正しいという確信もなかったからです。 それと同様、私の判断が正しいという確証もありませんから、その女性は私が出した判断に納得出来る筈がありません。 ましてや、私の判断に従った結果、思い通りにゆけばいいけれども、思い通りにいくとは限りません。 思い通りにいかなかった時、この女性は、きっと私の判断に従った事を後悔されるでしょう。それだけでなく、神仏を仇に思い、益々迷いを深めていかれるに違いありません。それでは、その女性にとって「百害あって一利なし」です。 そもそも、他人の判断に納得出来るお方なら、最初から相談の電話などしてきておられません。 納得出来るお方は、すでに求める答えを持っておられ、自分で判断出来るお方だからです。 判断してその女性が迷いから救われるのであれば、幾らでも判断させて頂きたいと思いますが、そうならない事が明らかである以上、薄情のようですが、その救いを妨げるような判断をして迷いを深めさせる訳にはいきません。 ですから、敢えて判断をしなかったのです。 大切な事は、他人の私が女性の進むべき道を判断する事ではなく、その女性が迷いの夢から目覚める事であり、救われる事です。 毒矢の喩えお釈迦様の弟子の中に、マールンクヤというお弟子さんがいました。 前々から、お釈迦様が様々な疑問に対しハッキリした答えを出して下さらない事に不満を抱いていたマールンクヤは、「今日こそ、私が思っている疑問にハッキリお答え下さい。疑問が晴れない限り、これ以上修行を続ける事は出来ません」と、お釈迦様に疑問をぶつけました。 お釈迦様は、次のように説いてマールンクヤを諭されました。 マールンクヤよ。よく聞くがよい。ここに毒矢に射られて今にも命を落とそうになっている男がいるとしよう。 これは、『箭喩経(せんゆきょう)』というお経に出てくる有名な「毒矢の喩え」というお話ですが、お釈迦様があえて明らかにされなかった事を「無記」(注1)と言い、明らかにされた事を「授記」と言います。 例えば、この宇宙は有限なのか無限なのか、霊魂があるのか無いのかというような疑問には、一切答えられませんでした。何故なら、救いにとって全く意味のない事だからです。 宇宙が有限か無限か、霊魂は有るのか無いのかが仮に明らかになったとしても、悩み苦しみから救われる訳ではありません。 多くの皆様からご相談を受ける度にいつも脳裏に浮かぶのが、この毒矢の喩えです。 どの道を進めばよいのか知りたいと判断を求めて来られる皆様も、煎じ詰めれば、このマールンクヤと同じなのです。 お釈迦様が、救いに関係のない事には一切判断を示されなかったように、救いにつながらない判断をしないのは、その為です。 と言うより、判断すれば益々その方の迷いを深める恐れがあるから、そのような判断は出来ないのです。 合掌 平成28年4月18日
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ヤマザクラ |
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(注1)
『箭喩経』には、次の十無記が説かれている。
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