桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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生きる目的を見失っているあなたへ(7)



一切諸法は因縁より生ず


前々回前回、進むべき進路に迷い、判断を求める電話をしてこられた女性の話や、二つ道のどちらへ行くべきか迷っている極楽望氏の例え話、そして出家すべきか結婚すべきかで悩んでいる女のお遍路さんの事例を挙げ、「自分自身が変わらない限り、右へ行っても左へ行っても、出家しても結婚しても、何も変わらない」「将来の事は誰にも分らないが、苦楽幸不幸があるのは、どちらの道も同じだ」と申しました。

また「仮に理想郷としての極楽浄土が有ったとしても、そこへ行けば、全ての悩み苦しみから解放される訳ではない」とも言いました。

何故そんな事が言えるのかと言いますと、私たちはみな、一人の例外もなく、過去に作ってきた様々な因縁を背負っているからです。

お釈迦様が「一切諸法は因縁より生ず」と説いておられるように、私たちが作ってきた因縁は、私たちの人生において、様々な結果となって現れてきます。

因縁生起(いんねんしょうき)とも、略して縁起(えんぎ)とも言いますが、一口に縁起と言っても、自分にとって都合の良い縁起もあれば、不都合な縁起もあります。

しかし、自分が作った因縁は、わが身に付いたものですから、好都合な因縁も不都合な因縁もすべて、自分が行くところへ持っていかねばなりません。

右へ行けば右へ、左へ行けば左へ、出家しても結婚しても、自分が行くところへどこまでも付いてくるのです。

例えば、東京から大阪へ引越しをする際、不都合な因縁だけを東京に置いて来るという訳にはいきません。

もしそれが可能なら、自分に都合の良い因縁だけを持って引っ越せばいいのですから、これほど好都合な事はありませんが、そうはいかないのです。


外の相に迷ってはならない


古歌に、
  浪の音 嫌じゃと思うて山ごもり
    声色変えて 松風ぞ吹く
 と詠われているように、海岸の近くへ家を建てたら、打ち寄せる波の音が喧しくて眠れないので、海岸から離れれば静かだろうと山奥へ移ったら、今度は松を吹き抜ける風の音が騒がしくてやはり眠れないのです。

要するに、場所を変えても、進むべき道を変えても、相手を変えても、不都合な何かを変えても、自分自身が変わらない限り、何も変わらないという事です。

しかし、世間には、自分以外の不都合な何かを変えれば人生が好転すると考え、益々迷いを深めている人々も大勢おられます。

ご承知のように、手相、人相、家相、骨相、印相、墓相、風水、四柱推命、六星占術、易、姓名判断、西洋占星術、水晶占い、霊感占い等々、ありとあらゆる占いに関する解説書が巷に溢れていますが、私自身もかつて、仏法を知るまでは、自分が背負っている因縁に気付かず、自分以外の不都合な何かを変えれば救われるだろうと考え、占いの世界に興味を持った時期がありました。

菩薩様を通じて仏法の真髄に触れてからは、いかに自分の考え方が短絡的で浅はかだったかを知り、占いへの興味もなくなりましたが、もし仏法というものに触れていなければ、益々迷いを深め、どこまで行っても先の見えない真っ暗闇の中を当てもなく彷徨っていたに違いありません。

菩薩様の『道歌集』の中に、
  相(そう)相と 外の相にと迷うより
    変えてうれしや わが心(うち)の相
  さとりなき 人の霊感はからいは
    衆生(ひと)も己れも 破滅にみちびく
  外面(そとづら)を 変えて人生変わるなら
    この世に苦しむ 人なきものを
 と詠われているように、自分の心が変わらない内に人生が好転したとすれば、それは大難、大病の前兆と言っていいでしょう。

家相や墓相はお金を出せば変えられますし、人相は整形手術をすれば何とか変えられるかも知れませんが、世相という相はどうして変えるのでしょうか?

世相を変えようと思えば、人の心を変える以外に方法はありません。

そして人の心を変える道を説くのが仏法であり、心の外にある不都合なものを変えれば人生も好転すると考える占いや霊感とは根本的に違うところです。


変わらない縁起の法則


自らが作った因縁は、死によっても消滅する事はありません。結果となって現れるまでは、後の世までも相続していかなければならないのです。

因縁の現れ方について、道元禅師は、「善悪の報に三時あり。一つには順現報受(じゅんげんほうじゅ)、二つには順次生受(じゅんじしょうじゅ)、三つには順後次受(じゅんごじじゅ)、これを三時と言う」と説いておられます。

順現報受とは、この世で作った行いの結果(果報、業報)を生きている間に受けなければならない場合、順次生受とは、この世で報いを受けなくても、次の世で受けなければならない場合、順後次受とは、この世や来世で受けなくても、更に後の世で報いをうけなければならない場合を言います。

あの世や次の世と言っても抽象的で分り難いので、菩薩様は、「行いの結果がすぐに現れてくるのが順現報受、徐々に現れてくるのが順次生受、忘れた頃に現れてくるのが順後次受と考えればよい」とおっしゃっておられましたが、例えば、電車の中でお年寄りに席を譲ってあげた時、すぐに「有り難うございます」というお礼の言葉が返ってきたり、譲った自分も清々しい気持ちになれるのは、結果がすぐに現れる順現報受業を積んだからです。

また、昨年、ノーベル医学生理学賞を受賞された北里大学の大村智栄誉教授や、ノーベル物理学賞を受賞された東京大学宇宙線研究所長の梶田隆章氏は、長年続けてきた研究が徐々に実を結び、大きな成果となって現れた順次生受業と言えましょう。

いずれにしても、自ら作った因縁は、善悪の結果となって実を結ぶまでは永遠永劫、相続していかなければならないのです。

極楽望氏が、占い師の翁の言葉を信じて右の道へ行こうが、霊感者の老婆の言葉を信じて左の道へ進もうが、また女のお遍路さんが、出家の道を選ぼうが、結婚の道を選ぼうが何も変わらないのは、背負っている因縁がどこまでも付いてくるからであり、因縁を解かない限り、何も変わらないのです。

ですから、右の道を選んで不幸になったとしても、結婚して不幸になったとしても、その道を選んだから不幸になったのではありません。また右の道や出家の道を選んでいれば、幸せになった訳でもありません。

自分が背負っている因縁が、右の道を選べば右へ、左の道を選べば左へ、結婚の道を選んでも、出家の道を選んでも、選んだ方へ付いてくるから、自ら背負っている因縁が幸不幸の結果となって現れてきたに過ぎません。

左と右、出家と結婚とでは現れ方が違うだけで、幸不幸の結果となって現れてくるという縁起の法則自体は何も変わらないのです。


「因縁を解く」と「因縁を切る」の違い


先ほどお話したように、自らが蒔いた種である以上、自分に都合の良い果実だけを収穫し、不都合な果実を排除したり拒否したりする事は出来ませんが、不都合な結果を運命と受け止め、幸せになる事を諦めなければならない訳ではありません。

何故なら、一旦結果となって現れた不都合な因縁であっても、悟りによって幾らでも都合の良い因縁に変えていく事が出来るからです。

つまり、絡まった糸を解きほぐすように因縁を解き、汚れた泥の中から清らかな花を咲かせる蓮華のように因縁を清める事が出来るのです。

縁起とは変えられるものであり、この点が、変えられない運命と根本的に違うところですが、自分にとって不都合な縁起を好都合な縁起に変えていく事を、「因縁を解く」「因縁を清める」と言います。

この「因縁を解く」「因縁を清める」という仏法の考え方と似て非なるものが、占い師や霊感者がよく使う「因縁を切る」と言う考え方です。

仏法では、因縁は切るものではなく、解くもの、清めるものと考えます。何故なら、因縁を切る事は出来ず、切る必要もないからです。切ってよい因縁も、切らなければならない因縁もありません。

「因縁を切る」という考え方の根底にあるのは、都合のよい因縁はそのままに、都合の悪い因縁だけを断ち切ってしまえばいいという心(分別心)ですが、そもそも都合のよい因縁と、都合の悪い因縁を、何を基準にして分けるのでしょうか?

例えば、自分は、どうしてもお天気になって欲しいと思っていても、他方で雨が降らなければ困る人もいます。自分の立場から言えば、お天気になる縁起は好都合で、雨を降らす縁起は不都合になりますが、雨が降って欲しい方の立場に立てば、不都合な雨が好都合に変わるのです。

そうなれば、好都合と不都合が立ち位置によって、めまぐるしく変わる事になり、何が好都合で何が不都合なのか、分からなくなってしまいます。

また仮に善悪縁起の判断が出来たとしても、今度は、不都合な縁起だけをどのようにして断ち切るのかという新たな難問が出てきます。

例えば、死という因縁は、生という因縁があって初めて生まれたものです。生という因縁がなければ、死という因縁もありません。

死という因縁は、私たちにとって甚だ都合の悪い因縁ですが、不都合だからと言って、生という因縁と一体である不都合な死の因縁だけを断ち切る事など不可能です。

ここに言う不可能とは、もちろん、断ち切る事が出来るのに断ち切れないという意味ではありません。生と死がそうであるように、元々断ち切れない不可分の関係にあるから断ち切れないのです。

要するに、「不都合な悪因縁だけを断ち切る」という発想そのものが矛盾しており、この世の真理に反していると言わざるを得ないのです。


吉祥天と黒闇天


以前、吉祥天と黒闇天のお話をしたのを覚えておられるでしょうか。

或る日、気品ただよう美しい女性が訪ねて来られ、「私は吉祥天という福の神です。お宅に、福徳を授けにまいりました」と言って、家の中に入って来られました。

ところが、吉祥天の後から、見るからにみすぼらしい女性が入って来ようとしているので、家人が「どなたですか?」と尋ねると、「私は黒闇天(こくあんてん)という疫病神です」と名乗ったので、「疫病神に入ってもらっては困ります。どうぞお帰り下さい」と言って、追い返そうとしました。

すると、黒闇天は大笑いして、「先ほど入って行った吉祥天は、わたしの姉です。わたしたちはいつも一心同体ですから、わたしを追い出せば、姉の吉祥天も一緒に出て行かねばなりません」と言って、黒闇天を追い出したら、せっかく入って来られた吉祥天も黒闇天と一緒に出て行ってしまったのです。

「吉凶禍福はあざなえる縄の如し」という諺があるように、幸不幸というものは、紙の裏表のようなもので、同じものをどちら側から見るかの違いに過ぎません。

表裏一体の関係にありますから、不都合な悪因縁を断ち切ろうと思えば、都合のよい善因縁も一緒に断ち切らなければならなくなります。

死という因縁が嫌なら、生という因縁も断ち切らなければなりません。

ましてや自分にとって不都合な因縁もみな、自分が作ってきたものですから、因縁を作った自分自身が変わらない限り何も変わらないし、変わりようがないのです。

合掌

平成28年5月8日


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