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菩提の種を蒔く日かな(4)人間に生まれた事の意味三途の川を渡って此岸から彼岸へ渡る上で、どうしても欠かせない条件が二つあります。 一つは、人間の身を与えられなければならないという事です。 皆さんは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六つの迷いの世界(六道)の中で最も彼岸に近いのはどの世界だと思われますか? 一見、人間界の上にある天上界の方が近いように見えますが、実は人間界の方が彼岸に近いのです。 天上界は苦しみがなく、楽ばかりの世界である為、苦しみを克服し、彼岸に渡りたいという心を起こす事が出来ません。 悩み苦しみがあればこそ、苦しみから救われたいという気持ちも、今よりもっと向上したいという心も起きるのですが、 天上界は楽ばかりの世界である為、道を求めて発心するのが非常に難しいのです。 他方、地獄、餓鬼、畜生、修羅の世界(四悪道)は、天上界とは逆に、楽がなく苦しみばかりの世界である為、こちらも発心するのが非常に難しいと言わざるを得ません。 要するに、苦もあり楽もある人間界が、発心するには最も優れた世界であり、六道の中では彼岸に最も近い世界なのです。 彼岸に渡る為には、どうしても人間に生まれてくる必要があると言ったのはその為ですが、残念ながら、人間に生まれてくる事は、そう簡単ではありません。 すでに人間の身を与えられている私たちにとっては当たり前の事実かも知れませんが、経典に「万劫(まんごう)にも得難きは人身なり」と説かれているように、人間以外の生き物たちから見れば、人間に生まれてくる事は決して当たり前ではないのです。 私たちは、ありとあらゆる生き物がいるこの地上に、人の身を与えられたという厳粛なる事実を当たり前と受け止めず、深く噛み締めなければなりません。 ここに言う「万劫」とは、時間の長さを現わす言葉で、四十里四方の大きな岩を百年に一度、天女様がこの世へ降りて来られ、薄い羽衣の袖で一回拭い、それを百年毎に繰り返し、巨大な岩が擦り切れて無くなるのに要する期間を一劫(注1)と言います。 人の身に生まれてくる事がいかに至難の業であるかが分かりますが、いま私たちは万劫にも得難い人の身を与えられているのです。 この事実だけを見ても有り難さが込み上げてきますが、人の身を与えられた本当の有り難さは、人間に生まれて来れたお陰で、六道輪廻の人生を終わらせる機会が巡ってきた事です。 六道輪廻の人生に終止符を打つ千載一遇の好機は、人の身を与えられた時にしか巡って来ません。 まさに私たちは、二度と巡ってくる事のない奇跡に遭遇していると言っても過言ではありませんが、それだけに、もしこの好機を逃すような事があれば、末代までの悔いを残す事は間違いないでしょう。 億劫にも遇い難きは仏法なりもう一つは、仏法とのご縁を頂かなければならないという事です。 いまお話したように、道を求めて発心出来るのは、六道の内で、苦楽幸不幸のある人間界だけですが、では人間に生まれさえすれば、誰もが分け隔てなく彼岸へ渡れるのかと言えば、残念ながらそうではありません。 人間の身を与えられても、全ての人が彼岸へ渡れるとは限らないのです。 彼岸へ渡るには、此岸と彼岸の間を流れる三途の川を安全に渡してくれる乗り物と、彼岸へ導いてくれる水先案内人が必要ですが、全ての人が平等にご縁を頂ける訳ではないからです。 乗り物とは、法ぶねとなる仏法であり、水先案内人とは、法ぶねに乗せて彼岸へ渡して下さるみ仏です。 真っ暗闇の中で、灯りも持たずに歩いて行くほど、物騒なことはありません。何処に石ころが落ちているか、何処に穴が開いているか、分からない道を安心して歩いていけるのは、足元を照らしてくれる灯りがあるからです。 その灯りが仏法であり、灯りを持って足元を照らして下さるお方がみ仏です。 勿論、仏法に遇わせて頂けるのも、み仏にご縁を結ばせて頂けるのも、ただの偶然ではありません。 過去に積んだ善根功徳のお蔭で、この世に人の身を与えられたのみならず、億劫にも遇う事の難しい仏法に遇わせて頂けたのです。 み仏とのご縁は、まさに善根功徳の果報であり、「宿善の助け」と言えましょうが、だからこそ、今の世で善根功徳を積ませて頂いて来世の宿善とし、来世での仏法とのご縁を深めておかなければならないのです。この世での仏法とのご縁を、決して徒疎(あだおろそ)かにしてはならないのです。 福の神と疫病神皆さんの中には、此岸と彼岸を別々の世界と誤解されているお方もおられるかも知れませんが、此岸と彼岸は、別々に存在する二つの世界ではなく、一つの世界の見方の違いに過ぎません。 以前、或る家の主人が、家に入って来ようとする疫病神の黒闇天を追い出したら、先に入って来られた福の神の吉祥天も一緒に出て行かれたという話をしましたが、覚えておられるでしょうか? この二人は姉妹で、どこへ行くにも一心同体であるため、妹の黒闇天を追い出せば、姉の吉祥天も出ていかざるを得ないのですが、この話から分かるのは、福の神の背後には必ず疫病神が、疫病神の背後には必ず福の神がいるという事です。 つまり、自分にとって都合の好い福の神だけを招き入れる事は出来ないのです。 吉凶禍福(きっきょうかふく)、苦楽幸不幸というものは、紙の表裏ですから、物事をどちら側から見るかによって、吉にもなれば凶にもなります。 吉も凶も禍も福も、幸も不幸も苦も楽も、同じものを、どちら側から見るかの違いに過ぎません。 例えば、「病気をするのと、健康であるのとどちらがいいですか?」と問われたら、誰もが「健康の方がいいに決まっている」と答えられるでしょう。 しかし、だからと言って、健康な人がみな幸せで、病気の人がみな不幸だとは決まっていません。 健康でありながら、毎日不平不満の心で暮している人や、お互いに傷つけ合いながら生きている人もいれば、病気をしていても、感謝の気持ちを忘れず、心豊かに暮らしている人も大勢います。 何故かと言えば、吉凶禍福、幸不幸を決めるのは、健康か病気かではなく、自分自身だからです。 どちら側から見るか、どのように受け止めるかによって、健康が不幸になったり、病気が幸せになったりするのは、その為です。自分以外に自分の幸不幸を決められる人など一人もいません。 病気という一つの出来事の中にさえ、疫病神の悪い面と福の神の良い面が並存しています。そのどちらの顔を見ていくか、それによって幸不幸がハッキリ分かれます。疫病神の顔だけを見ていては、福の神の顔は見えて来ません。 まず病気を在るがまま受け止め、病気の中に居る福の神の顔を観察する心(観の眼)を養わなければ、六尺病床が極楽に変わる事はありません。 地獄極楽の在り処「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」の六道は、心で作る世界ですから、自分が行く所にどこまでも付いてきます。 六道の世界は本来どこにもありませんが、わが心で作る架空の世界だからこそ、心が迷っている限り、何処にでも存在します。いま自分の座っている場所が極楽にもなれば地獄にもなるのです。 苦しみだけしかない世界、救いしかない世界というものはありません。あるのは、苦しみと救いが並存する世界です。 仏教では、この世を「四苦八苦」(注2)の世と捉えていますが、この世が苦しみの世界であるなら、苦しみから救われる世界もこの世にあります。 もしあの世に極楽(彼岸)があるなら、地獄(此岸)もあの世にあります。この世に地獄があるなら、極楽もこの世にあります。 この世は苦しみの世界だから、あの世へ行かないと救い(極楽)はないと言うお方もいますが、これは間違いです。 地獄も極楽も、自分の心の外に存在する世界ではなく、自らが迷いの心で作り出す架空の世界ですから、迷いの夢から目覚めない限り、地獄も極楽も自分と共に存在し続けます。 この道理が分かれば、迷いの夢から目覚める事が何より大切であり、迷いから目覚める為には仏法に頼る以外に道がない事も、自ずと分ってきます。 合掌
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彼岸花 |
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(注1)盤石劫という。或いは、四十里四方の大きな城に芥子粒を満たし、それを百年に一度、天女様がこの世へ降りてきて一粒だけ取り出し、それを百年毎に繰り返して、すべての芥子粒を取り出すのに要する期間(芥子劫)ともいう。
(注2)生老病死の四つの苦しみと、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四つを合わせて四苦八苦という。
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