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「福は内、鬼も内」に込められた願い(1)「アメリカ第一主義」は成功するか!最近、テレビのニュース番組に必ずと言っていいほど登場するのが、アメリカのトランプ大統領です。 大統領選挙の期間中から、過激な発言で注目を集め、一部には、選挙の為のパフォーマンスに過ぎないという意見もありましたが、いざ蓋を開けてみれば、大統領に就任するや否や、発言通りの行動を次々と実行に移し、強引とも言える行動への賛否両論が沸騰して、今やアメリカ国内の世論を二分する事態にまで発展しています。 メキシコからの不法移民を取り締まるためメキシコとの国境に壁を造ろうとしたり、テロリストがアメリカ国内に入り込まないよう、中東やアフリカの一部の国々からの渡航を一時的に禁止したり、批准を待つばかりになっていた環太平洋パートナーシップ協定(TPP)を一方的に破棄するなど、矢継ぎ早に大統領令に署名する一方、選挙期間中から物議をかもしていた言動も過激さを増し、一向に衰える気配がありません。 「アメリカ第一主義」を掲げ、国内の雇用や国の安全を守りたいというトランプ大統領の思いは分からないでもありませんが、その願いとは裏腹に、アメリカの抱える数々の難問が、一連の大統領令によって解決するとは思えません。 それらの問題には様々な人々や国が関わっており、人々の心が変わらなければ、問題は何も解決しませんが、一連の大統領令が、それらの人々の心を変えるとは到底思えないからです。 メキシコからの不法移民にしても、テロリストの流入にしても、彼らには、彼らなりの言い分(大義名分)があるでしょうから、こちらが一方的に門戸を閉ざしても、彼らの心を変える事はまず不可能でしょう。 争わずにはいられない悲しい人間の性今も中東やアフリカを始め、世界各地で様々な紛争が起きている状況を見ると、争わずには生きていけない人間の罪深い性(さが)というものを、まざまざと見せつけられているようで、つくづく人間という生き物が、愚かで罪深い生き物である事を痛感せずにはいられません。 少し考え方や見方を変えれば、お互いが仲良く付き合っていける筈なのですが、様々な利害関係や宗教や思想信条が絡んでいるため、いまもって解決の兆しは見えてきません。 狭い家庭の中でさえ、親子夫婦兄弟がいがみ合っている現実がある以上、国と国との紛争ともなれば、その解決がいかに困難であるかは想像に難くありません。 しかし、たとえそうであったとしても、否、そうであるからこそ尚更、お互いが智慧を出し合って困難な問題を乗り越えていかなければ、子々孫々に禍根を残すだけとなりましょう。 「福は内、鬼も内」私たち人間は、日々、身と口と心とに様々な罪業を作り、いつ終わるとも知れない六道輪廻の迷い旅を繰り返しているというのが仏教の世界観ですが、輪廻の人生に終止符を打ち、迷いの旅を終わらせる為には、どうしても私たち自身が生まれ変わらなければなりません。 生まれ変わる為には、どんな事があろうと動じない不動の心を養い、確立する必要があります。 汚れた水の中に、綺麗な水を注げば次第に綺麗になっていくように、不動の心を確立した人が、一人、二人と増えていけば、争いのない世界の実現に少しずつ近づいていく筈です。 大切な事は、「その為に何をすればよいか」という事ですが、仏教には、そのヒントが沢山あります。 例えば、二月三日に行われる節分の行事も、その一つと言えましょう。 私たちのご先祖は、季節が大きく変わる立春、立夏、立秋、立冬の前日を節分とし、新しい年を無事に暮らせるようにという願いの下、様々な厄除け、厄払いをしてきましたが、節分の行事で、すぐに脳裏に浮かんでくるのは、やはり豆まきではないでしょうか。 最近は、関西で始まった恵方巻(えほうまき)と呼ばれる巻きずしを食べる習慣が話題を集め、全国的な広がりを見せていますが、やはり節分の行事といえば、豆まきの右に出るものはありません。 古来から行われてきた豆まきの方法は、先ずその年の縁起の良い方角(恵方)に向かって「福は内」と連呼しながら豆を撒き、次に、恵方に背を向け、「鬼は外」と唱えながら豆を撒くのが一般的ですが、その点から言えば、法徳寺で行う豆まきは、少し変っています。 驚かれるかも知れませんが、法徳寺では、毎年「福は内、鬼も内」と唱えながら豆を撒くのが恒例となっています。 これは常々、菩薩様が、「法徳寺は《福は内、鬼も内》でなければいけない」とおっしゃっておられたからですが、福だけを招き入れたい世間の皆さんから見れば、鬼まで招く事には異論もあるでしょう。 しかし、菩薩様が、「福は内、鬼も内」と言いながら豆まきをされたのには、深い意味があります。この言葉の中には、衆生の救いを願う菩薩様の大慈悲心が込められているのです。 救いを必要としているのは誰か豆まきで退治する鬼は、私たちがイメージしている鬼(餓鬼)ばかりではなく、私たちにとって好ましくない病気や怪我や事故や様々な災難等も含まれています。 その意味で、人間を苦しめる死もまた、鬼の一種と考えていいでしょう。 中国では死んだ人の事を餓鬼(鬼)と言って、死をとても忌み嫌いますが、「鬼は外」という言葉には、やはり死という鬼を家の中に招きたくないという人々の切実な気持ちが込められているのではないでしょうか。 そういう様々な災難や死の鬼が家の中に入ってこないようにという願いを込めて、先人たちは、「福は内、鬼は外」と唱えながら豆まきをしてきたのですが、菩薩様は、誰もが忌み嫌うそれらの鬼をも家の中に招き入れてあげなさいとおっしゃったのです。 何故でしょうか? 節分に豆をまくのは、誰もが災難や死という鬼を家の中に招きたくないという思いからであり、救われたいと願っているからでしょうが、だからこそ、まず考えなければならないのは、「最も救いを必要としているのは誰か?」という事です。 鬼は、まだ救われていない生類ですから、誰よりも救いを必要としています。法徳寺は衆生済度をするお寺ですから、最も救いを必要としている鬼を、真っ先に招いてあげなければいけないのです。 「福は入ってきて下さい。鬼は出て行って下さい」というのでは、衆生済度の使命を寺院自ら放棄している事になり、本末転倒と言わねばなりません。 菩薩様が常々「法徳寺にご縁があった方々はすべて救われなければならない衆生だ。鬼も衆生の一人だから、鬼であろうが蛇であろうが、救いを必要としている生類は、すべてお寺に招いて、法を説いて救ってあげなければいけない」と仰っておられましたが、「福は内、鬼も内」という言葉には、苦しむ生類を分け隔てなく救いたいという菩薩様の深い慈悲心が込められている事がお分かり頂けると思います。 ご承知のように、お大師様は、 鬼も餓鬼も分け隔てなく招き入れて救いの御手を差し伸べたいというのが、「福は内、鬼も内」という言葉に込められたお大師様、菩薩様の願いなのです。 吉凶禍福は一体なり「福は内、鬼も内」と唱える二つ目の理由は、福も鬼も、別々の存在ではなく、一心同体の関係にあるという事です。 菩薩様の道歌の中に、 人間を苦しめる死という鬼もまた、生と一体のものであり、生がなければ死もありません。もし死ぬのが嫌なら、この世に生まれて来なければいいのです。 お葬式などに行くと、家の門口に塩が撒かれ、塩を踏んでから中に入るようになっていますが、これは、昔から死を汚れたものとして、忌み嫌ってきたからです。 しかし、死が汚れたものなら、死と一体である生もまた汚れたものと言わなければなりません。 表裏一体の死だけを汚れたものと見做し、死と一体の生だけを好ましいものと見做すのは、生死の真相を知らない人間の迷い以外の何ものでもないでしょう。 このような事例を見れば分かるように、自分にとって何を好ましく思い、何を不都合と感じるかによって、一つの事柄が福になったり鬼になったりするのです。 吉祥天と黒闇天以前お話しした福の神(吉祥天)と疫病神(黒闇天)の話を覚えておられるでしょうか。 この二人は姉妹で、どこへ行くのも一緒です。一心同体ですから、離れる事がありません。 或る日、一軒の家に美しい女性が訪ねてこられ、「私は吉祥天と言う福の神です。お宅に、福を授けにまいりました」と言われたので、家人は大いに喜び、「それは有り難い事です。どうぞ中へお入り下さい」と言って、招き入れようとすると、その後ろから、みすぼらしい姿をした女性が入ってこようとするので、「あなたはどなたですか?」と尋ねると、「私は、黒闇天という疫病神です」と名乗ったので、「疫病神に入ってもらっては困ります。どうぞお帰り下さい」と言って追い出そうとしました。 すると黒闇天は大笑いしながら、「先ほど入っていった吉祥天は私の姉です。私達二人は一心同体で、どこへ行くのもいつも一緒です。ですから、もし私を追い出せば、姉も一緒に出て行かねばなりません」と言って、黒闇天を追い出したら、吉祥天も一緒に出て行かれたというのです。 「吉凶禍福はあざなえる縄の如し」と申しますが、吉も凶も禍も福も、仏も鬼も、生も死も、すべて表裏一体の関係にありますから、もし吉祥天を招きたければ、吉祥天の妹である黒闇天も一緒に招かなければなりません。福の神だけを招き入れる事は出来ないのです。 おめでたい吉だけを招きたいと思っても、吉の裏には、いつも必ず凶が付いています。吉は有り難いが、凶は嫌だというのが、世間の常識でしょうが、吉も凶も分け隔てなく受け入れる心にならなければ、いつまで経っても本当の福の神はやって来ません。 凶と正反対の福が、本当の福ではありません。この福は、あくまで禍と一体になった仮の福に過ぎません。本当の福は、吉を招き、凶を遠ざけようとする分別心を越えたところにあります。 吉凶禍福をすべて受け入れる心を成就した時、初めてそこに本当の福の神が顔を出すのです。菩薩様が、「《鬼も内》でなければいけない。それが法徳寺の豆まきだ」とおっしゃった理由がそこにあります。 合掌
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