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「福は内、鬼も内」に込められた願い(2)戦わずして勝つ「福は内、鬼は外」の世界は、私たちの立場から見ると、とても都合の良い世界ですが、では鬼の立場から見ると、どうなのでしょうか? 「鬼は外」と言って豆を投げられる鬼は、自分が誰からも嫌われ、攻撃すべき敵であると思われている事を知り、悲しい気持ちになるのではないでしょうか? 私たちが自分の事を誰よりも大事に思うように、鬼も自分自身を大切に思っている筈です。 ですから、もし自分が誰からも嫌われ、いつ攻撃されるかも分からない事を知れば、いつ攻撃されても反撃出来るよう、万全の準備を整えて待ち構えようとするに違いありまん。 そんな時、「あなたは私たちの敵ではありません。あなたも私たちの仲間です。どうか安心して仲間に入って下さい」と言われたらどうでしょうか? もう攻撃してくる相手が居ないのですから、自分を守る必要がありません。今まで敵だと思っていた相手から、仲間だと言われた鬼は、攻撃(反撃)しようとする心を捨て、私たちの為に働いてくれるようになるでしょう。 『孫子』の兵法に、「戦わずして勝つ」という言葉がありますが、まさに敵であった鬼を味方につければ、勝ったも同然です。 否、そもそも鬼を敵(不都合な相手)としてしか見ることの出来ない心は、まだ悟りの智慧が開けていない証拠であり、これではいくら待っても、争いの種を摘む事は出来ず、戦っても勝てる道理がありません。 鬼は戦うべき敵ではなく、仲間に入ってもらい、福の神に生まれ変わってもらわなければならない相手なのです。 仏教に帰依した守護神たち仏教には、大勢のみ仏や菩薩がおられますが、大別すれば、四つに分類する事が出来ます。 先ず、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、釈迦如来等の、如来と言われるみ仏です。 次に、観自在菩薩、地蔵菩薩、文殊菩薩、勢至菩薩、普賢菩薩等の菩薩と呼ばれるみ仏です。 更に不動明王、愛染明王、孔雀明王などの明王と呼ばれるみ仏がおられます。 そして、毘沙門天、大黒天、吉祥天、弁財天、帝釈天などの、天部(てんぶ)と呼ばれる神々がおられますが、この天部の神々は、仏教本来の神々ではなく、実はインドの国教であるヒンドゥ教から、仏教に帰依して守護神となられた異教の神々なのです。 つまり、最初は仏教の敵とも言うべき立場におられた異教の神々が、仏教に帰依して仏法を守る守護神となり、み仏の仲間入りをされたのです。 まさに「戦わずして勝つ」の兵法通り、異教の神々までをも受けいれ、味方につけてしまった好例と言っていいでしょう。 不都合な相手をも受け入れ、いかなる者をも漏らさず救いの御手を差し伸べ給うお釈迦様の大慈悲心が、仏教の敵ともいうべき異教の神々を味方につけ、新たな守護神としての使命を与えられたのです。 菩薩様がおっしゃった「福は内、鬼も内」という言葉にも、お釈迦様の慈悲の精神が脈々と流れている事は言うまでもありません。 分別心の罠それにしても何故私たちは、「福は内、鬼は外」と言って、鬼を忌み嫌うのでしょうか? それは、自分にとって都合の善い事と不都合な事を分別する心があるからです。 自分の立ち位置から、好都合と不都合を色分けし、好都合な事を福とし、不都合な事を鬼として分別しているのですが、この分別心は、自分中心の世界に生きている限り、なくなりません。 つまり、自己中心の世界に出現する福や鬼は、本当の福や鬼ではなく、自分にとって都合が善いか悪いかの基準で色分けされた福や鬼に過ぎないという事です。 言い換えれば、自分にとって不都合だから今は鬼になっているけれども、自分にとって好都合になれば、いつでも福に変わる鬼なのです。 逆に、もしこの福が自分にとって不都合なものになれば、いつでも鬼に変わってしまう福に過ぎません。 福はどこまで行っても福、鬼はどこまで行っても鬼と思いがちですが、迷いの人間が考える福や鬼は、決してそうではありません。 自分自身が福や鬼を決めている基準なのですから、これほどあいまい模糊とした基準はありません。 このあいまいな基準を元として、物事を分別している限り、本当の福も本当の幸せも永遠に訪れないでしょう。 本当の福の神は誰か?では、私たちが求めている本当の福の神はどこにいるのでしょうか? その福の神に逢う為には、不都合な事をも含めて一切を在るがまま受け入れる心を成就しなければなりません。 しかし、この「一切を在るがまま受け入れる心」とは、受け入れたくないけれども、やむを得ないから受け入れようという消極的、受動的な気持ちではありません。 受け入れるからには、有り難く受け入れさせていただこうという、もっと積極的で能動的な心なのです。 勿論、不都合な事を有り難く受け入れなさいと言っても、不都合のまま受け入れるのは難しいでしょう。 ですから、不都合のまま受け入れるのではなく、不都合だと思っていた事が実は不都合ではなく、好都合だったのだと納得し確信できるまで、悟りの智慧を磨かなければなりません。 福の神と疫病神の例で言えば、今まで疫病神だと思っていた黒闇天のもう一つの顔が、福の神の吉祥天だという事を、心の底から納得できるまで、悟りの智慧を磨こうという事です。 そこまで悟りの智慧が磨かれれば、もう福の神を外に求める必要はありません。何故なら、あなた自身がすでに福の神になっているからです。 つまり、真の福の神は、あなた自身なのです。 残念ながら、世間では、福や鬼を心の外に見て、「福は内、鬼は外」と唱えながら豆まきをしていますが、不都合な事をも在るがまま受け入れる心に目覚め、「福は内、鬼も内」と唱えられるようになった時、自分が本当の福の神だったのだという事が分かってきます。 「福は内、鬼も内」という掛け声には、自らの内に眠る福の神を呼び覚まし、他の人々に福を授けられる人間になって欲しいという願いが込められているのです。 善分別と悪分別分別心が救いの邪魔をしていると申しましたが、ではどんな分別もしてはいけないのかと言えば、分別心がすべて悪い訳ではありません。 正しい教え(仏法)と間違った教え(邪教)を見極める分別心は、善分別であり、大いに推奨されています。 例えば、テロリストの背後にいるISILやアルカイダなどのイスラム過激派組織は、自分たちをイスラム教徒と名乗っていますが、敬虔なイスラム教徒たちは、「彼らは真のイスラム教徒ではない。ただイスラム教の皮を被っている狼に過ぎない」と言って、イスラム過激派を真のイスラム教徒とは認めていません。 勿論、イスラム教徒がすべてテロリストではありませんし、テロリストになる訳でもありませんから、真のイスラム教徒と、イスラム教徒の皮を被っているにすぎないテロリストをはっきり分別し、見極める眼を持つ事が大切です。 しかし、それを混同して、イスラム教徒はすべてテロリストだと決めつけるのは、明らかに自分たちの立ち位置から好都合、不都合を色分けし、分別しようとする悪分別と言わねばなりません。 その意味で、中東やアフリカの一部の国々からの流入を禁止するためトランプ大統領が署名した大統領令は、明らかに悪分別によって出された大統領令と言わざるを得ないでしょう。 シリア移民の子・スティーブ・ジョブズトランプ大統領の政策は、イスラム教徒を差別する為ではなく、あくまでイスラム教過激派組織を信奉する一部のテロリストが流入してこないよう、入り口で食い止める為の施策でしょうが、だからと言って、自分たちの立ち位置だけから好都合、不都合を判断するのは、やはり悪分別と言わざるを得ません。 難民と言われる人々の中には、テロの脅威から家族を守るため、やむを得ず祖国を棄てて逃れてきた敬虔なイスラム教徒や、アメリカの発展の為に有用な人物も大勢います。 例えば、iMacやiPhoneやiPadでIT革命を起こしたアップルコンピューターの創業者であるスティーブ・ジョブズの父親は、アブドゥルファター・ジャンダーリというシリアからの留学生でした。 アメリカ人の女性と恋に落ち、ジョブズが生まれますが、女性の父親の猛反対で、自ら育てる事が出来ず、ジョブズは生まれる前から、ポール・ジョブズ、クララ・ジョブズ夫妻の下へ、養子に出される事が決まっていました。 ジョブズにしてみれば、母親の両親はまさに鬼とも言うべき人物だったかも知れませんが、彼は、その逆境を福に変え、「アメリカンドリーム」を実現して大成功を修めました。 彼の成功は、アメリカという国をも大きく発展させた事は言うまでもありませんが、もしアメリカ合衆国が、シリア人の流入を一切受け入れていなければ、アップルという会社は、この世に存在していなかったかも知れませんし、iMacもiPhoneも誕生していなかったかも知れません。 勿論、テロリストがシリアからの難民に紛れ込んでアメリカに入ってくる可能性は否定できませんが、だからといって、有能な人たちや、難を逃れてきた人々まで締め出すのは、本末転倒と言わねばならず、悪分別の何ものでもないでしょう。 合掌
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