桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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稲荷大明神勧請(1)



御開創十三年目のお計らい


月日が経つのは早いもので、平成十六年四月十三日に高野山(たかのやま)法徳寺が発足して、早や十二年の歳月が流れました。「十年ひと昔」と申しますが、アッと言う間の十二年間だったような気が致します。

いままで全くご縁のなかった新天地での発足でしたので、将来に向けての不安が全くなかった訳ではありませんが、お陰様で、今年(平成二十九年)の四月十三日で、開創十三年目を迎える事が出来ました。

これも、ひとえにお大師様、菩薩様のご加護と、御同行の皆様の変らぬご支援の賜物であり、この場をお借りして厚く御礼を申し上げます。

さて、今年は、菩薩様のご縁日(十三日)に因む御開創十三年目に当たる事から、高野山法徳寺にとって大きな節目の年となるのではないかと、心に期するものがありました。

今年四月十三日の春の大法要でも、そのような趣旨の法話をさせていただきましたが、間髪入れず申しましょうか、三日後の四月十六日、お大師様、菩薩様から、思いも寄らぬお計らいをいただきました。

その日、夢殿の御回廊廻りを終え、境内に生えている草の様子を見に行ったところ、スリッパの片方だけが、四足分落ちていました。

開創から十二年が経過しましたが、今までこのような事は一度も無く、不思議に思っていたところ、翌十七日にも、靴、スリッパ、長靴、スニーカー、空き缶などが、境内のあちらこちらに散乱していました。

境内に落ちていたスリッパや靴やスニーカー等は、いずれも薄汚れ、ゴミとして捨てられていたものである事は明らかでした。

誰かがここまで運んできたものと思われますが、それからもほぼ毎日のように、境内の各所に、スリッパ、長靴、スニーカー、靴など、主に足に関係するものが散乱していました。

また十七日には、ネズミとモグラが、境内の一角で、仲良く肩を並べて死んでいるという、珍しい光景にも遭遇しました。


犯人は誰か?


境内へ運ばれてきた数々の足に関係する落とし物は、四月十六日から五月八日まで、ほぼ毎日続き、落ちていなかったのは、四月十八日、四月二十日、五月三日の三日間だけでしたが、一体誰がこんなものを運んできたのでしょうか?

どこかに捨てられていた靴やスリッパや長靴を、わざわざこんな所まで運んで来る人はいないでしょうから、恐らく犯人は、この辺りに住む狐か鹿かカラスのいずれかであろうと思われますが、最も可能性が高いのは、やはり狐です。

と言いますのも、境内の東側にある土手に、穴が数か所掘られ、その中に狐の親子が住んでいるのを何度も目撃していたからです。

今年の春先から土手の上で、五匹の子狐が、じゃれ合いながら楽しそうに遊んだり、日向ぼっこをしている光景を何度も見かけましたので、犯人は、狐に相違ありません。

実は、その念押しとも言うべきお計らいが、四月三十日にありました。狐

その日、家内が、境内に靴やスリッパが落ちていないかと、いつものように土手に添って歩いて行くと、土手のすぐ下に、鹿の足の一部らしきものが落ちていたのです。

恐らく、どこかで死んでいた鹿の足の一部を、ここまで運んできたのでしょうが、この辺りで、死んだ鹿の肉を食べたり運ぶ習性のある動物と言えば、やはり肉食の狐しかいません。

スリッパや靴を運んできた犯人が狐である事は、ほぼ間違いありませんが、肉食である狐の習性を考えれば、鹿の足を運んできたのも、狐と考えて間違いないでしょう。

狐が土手に穴を掘って子供を育てているのは今年が初めてではありませんが、狐が、どこかに捨てられていた物を境内まで運んできた事は、法徳寺が発足してから一度もなく、まさに十三年目のサプライズと言ってよいでしょう。

しかし、十三年目に入るや否や、間髪入れずに、靴、スリッパ、スニーカー、鹿の足など、主に足に関係するものばかりが運ばれてきた事を考えれば、ただの偶然と見過ごす訳にはいかず、やはり、お大師様、菩薩様のお計らいと悟らせていただきました。


何を悟らなければいけないのか


もし一連の出来事が、お大師様、菩薩様のお計らいだとすれば、次に悟らなければならないのはその目的です。

最初に靴やスリッパを発見してから八日目の四月二十四日、母(寿法様)が不思議な夢を見ました。

母は紀州高野山に居るそうで、前方を見ると、十三人の人が居て、その中の山崎さんという人が、「あれを見て!」と言ったので、そちらを見ると、そこに二人の人が立っていて、その内の一人が、縦に長い鳥かごを持っていました。

鳥かごの中を見ると、かごの端の方に、黒い色をした観音様が立っておられるので、母は、「観音経を唱えないといけないのだろうか?」と思ったそうですが、夢を鹿の角見たその日、家内が、土手の上で、鹿の角を見つけました。

先ほどお話したように、鹿の足の一部を発見したのは、それから一週間後の四月三十日でしたから、一週間の内に、鹿の角と鹿の足を相次いで発見した事になりますが、法徳寺が発足してから今日までの十二年間、鹿の角と足が落ちていたり拾ったりした事は一度もなく、やはりこれも、お大師様、菩薩様のお計らいと考えざるを得ませんでした。

鹿の角と足から連想するものと言えば、天と地です。

天地は神仏であり、境内に落ちていたものが、主に足に関係するものであった事や、天地を連想させる鹿の角と足を相次いで発見した事などから、「これは、神社(神)と寺院(仏)に足を運べというお指図ではないか?」と悟らせていただいたのですが、問題は、「どこの神社と寺院にお参りすればよいのか?」という事です。

母が四月二十四日に高野山に居る夢を見たので、お参りする寺院は、紀州高野山と考えて間違いないだろうと思い、五月のゴールデンウィーク明けに、高野山へ御開創十三年目のお礼参りに行かせていただく事にしました。

この時は、高野山にお参りすれば、お参りする神社についても、何らかのお計らいがあるのではないかと思っていましたので、どこの神社にお参りするかは、まだ決めていませんでした。

ところが、翌五月一日、境内を見ると、前日同様、各所に、靴やスリッパが落ちていたのです。

過去の経験上、お悟りに間違いがなければ、翌日からお計らいが止まる場合が多いので、翌日も落ちていたという事は、先に高野山へお参りする事は、お大師様、菩薩様のみ心ではないという事です。

先にお寺(高野山)へお参りしたのでは、天地が逆になるから、それを避けよという事なのかも知れません。

そこで、先に神様(神社)へお参りさせていただく事にしたのですが、問題は、「どこの神様(神社)にお参りすればよいのか」という事です。


稲荷大明神と狐の伝承


思うに、四月十六日から五月八日までの二十三日間、主に足に関係するものを運んできた犯人が狐である事を考えれば、狐に縁の深い神様である稲荷大明神と考えて間違いないでしょう。

しかし、一口にお稲荷様と言っても、神社に祀られている佐賀の祐徳稲荷、茨城の笠間稲荷をはじめ、寺院にお祀りされている愛知の豊川稲荷や岡山の最上稲荷など、お稲荷様を祀る神社仏閣は、全国に約三万五千社余りあると言われています。

ですから、どのお稲荷様にお参りすればよいのか一概には決められないのですが、全国の稲荷社の総本社と言えば、やはり京都の伏見稲荷大社です。

今回のお計らいも、他の稲荷神社に導かれていると思えるような特段の事情がないので、総本社である伏見大社に導かれていると考えるのが妥当でしょうが、この他にも、伏見稲荷大社に導かれていると思った理由が、二つありました。

まず一つは、稲荷大明神の使いとなった狐にまつわる伝承です。

愛知の豊川稲荷や岡山の最上稲荷など、寺院にお祀りされているお稲荷様は、大日如来の化身である大黒天の導きによって、仏法を守る守護神となったヒンズー教の女鬼、荼吉尼天ダーキニーの事で、日本では、音写して、荼吉尼天(だきにてん)と呼ばれています。

ダーキニー(荼吉尼天)は、ヒンズー教の女神カーリーが連れている女鬼の一人で、半年前から人の死を知り、死んだ人間の心臓や血肉を食べると言われている恐ろしい夜叉の仲間ですが、先ほど述べたように、稲荷大明神の使いとされている狐も肉食で、死体を食べる習性があると言われています。

このように死体を食べるダーキニー(荼枳尼天)の習性と、狐の習性がよく似ている事から、豊川稲荷や最上稲荷にお祀りされている荼枳尼天は、白狐に乗る天女の姿で描かれているのですが、この白狐が稲荷大明神(荼枳尼天)の使いになった縁起について、次のような伝承が残っています。

昔、京都北区の船岡山の辺りに、老いたキツネの夫婦が住んでいました。牝は銀の針を立てたような白毛で、身体は狐でしたが、首は鹿で、五匹の子狐を連れていました。  弘仁年間、狐の老夫婦は、五匹の子狐を連れて稲荷山にお参りし、神前にぬかずいて、「私たちは畜生の身ですが、生まれたときから霊智を備え、世を守り、諸人を助けたいとの願いを持っています。しかし、狐の身では、この願いを遂げる事は難しく、叶えられるならば、今日から当社の眷属となり、神威をかりてこの願いを成し遂げたいと思います」と申し出たところ、稲荷大神は大変喜ばれ、「汝等の願いは殊勝である。よって、今から長く当社に仕え、お参りの人々を助けよ。牡の狐は「小薄(こすすき)」と名乗って上之宮に仕え、牝の狐は「阿古町(あこまち)」と名乗って下之宮に仕えよ」と告げられたので、狐の夫婦は、各々十の誓約を立てて、万人の幸を守り、願いを満たしてきたと言われています。

この伝承を読んですぐ脳裏に浮かんだのは、スリッパや靴を運んできた狐が五匹の子連れであった事と、境内に鹿の角と足が落ちていた事です。

法徳寺で起こったこれら一連の出来事と、京都に住んでいた狐夫婦の牝の首が鹿で、しかも五匹の子狐を連れていたと言う船岡山伝承の内容が重なり、「境内に住んでいた狐の家族を、稲荷大明神の遣いとなった船岡山の狐に見立て、私たちを伏見稲荷へ導く手立てに違いない」と悟らせて頂いたのです。


弘法大師と伏見稲荷とのご縁


もう一つは、やはり伏見稲荷と弘法大師様との深いご縁です。

後述するように、伏見稲荷大社の創建には二つの伝承があり、その内の「荷田(にだ)氏系の稲荷伝承」によれば、伏見稲荷大社の創建に、お大師様が深く関わっておられる事が明らかになっています。

法徳寺は、お大師様と不二一体の生き仏となられた普門法舟大菩薩様をご本尊と仰ぎ、高野山(たかのやま)の山号を頂く聖地であり、お大師様とご縁の深い稲荷大明神が、新たに法徳寺とご縁を結ばれたとしても何ら不思議はありません。

こうして、法徳寺で起こった一連の出来事と、狐が伏見稲荷大明神の使いとなった船岡山の伝承、そして、お大師様と伏見稲荷大社との深い因縁などから、京都の伏見稲荷大社に導かれていると悟らせて頂いたのです。

お参りの日は、連休明けの五月十三日(土曜日)に決まりましたが、家族全員でお参りしたいと思い、東京にいる子供にも、お参り出来ないかどうか尋ねたところ、予定があると言うので、一旦は一緒に行く事を諦めていました。

ところが、その後、「予定が変わったので、一緒にお参りできるようになった」との連絡が入り、家族全員でお参りさせていただけるようになったのですが、実は、この予定変更の中に、お大師様、菩薩様のお計らいが隠されていたのです。

後述するように、どうしても子供が一緒に行かなければならない理由があるから、お大師様、菩薩様が、子供の予定を変更して、一緒に行けるようにして下さったのです。

残念ながら、そのお計らいの意味を悟らせて頂いたのは、伏見稲荷大社へお参りする前ではなく、お参りから帰って数日経ってからでした。

合掌


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