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大自然から学ぶ智慧(2)何の為のお参りか世の中には、「何のために神社やお寺にお参りするのですか?」とお尋ねすると、「願いを叶えたいからです」と答えるお方が大勢おられますが、これを見ると、多くの方が、願いが叶う事と幸せになる事を混同しておられるのがよく分かります。 この方々にとっては、様々な願いを叶える事がお参りの目的ですから、願いが叶った時は「ご利益をいただき、有り難いです」と言って喜んでいられますが、いつも願いが叶うとは限りませんから、願いが叶わなくなると、神仏を仇に思うお方も出てくるのではないでしょうか? 願いが叶うか否かによって、有り難くなったり、そうでなくなったりするのは、まだ根底から救われていないからですが、願いが叶う事と救われる事は根本的に違います。 願いが叶ったからと言って、救われた訳でも幸せになれた訳でもなく、あくまで一つの願い、一つの欲望が一時的に充たされたに過ぎません。 願いが叶っても、その場限りの自己満足ですから、また新たな欲望や願いが生まれ、その願いが叶わないと更に新たな苦しみが生まれ、その苦しみから逃れたいという新たな願いが次々に生まれるという、果てしない悪循環の泥沼に陥ってしまうのです。 例えば、子供のいない人に子供が生まれても、それは「子供が欲しい」という欲望の一つが叶えられただけで、幸せが約束された訳ではありません。 子供が生まれた事によって、そこからまた新たな苦しみが始まる事は、世の中で起きる様々な事件や事故を見れば一目瞭然です。 結局、私たちの人生は、子供がなくても苦労、子供があっても苦労、商売がうまくいっても苦労、うまくいかなくても苦労、結婚しても苦労、結婚しなくても苦労、病気しても苦労、病気しなくても苦労で、どちらに転んでもそこに待っているのは苦労だけで、欲望の充足に幸せを求めている限り、いつまで経っても本当の幸せにはつながらないのです。 本当の幸せが得られるかどうかは、欲望の充足に幸せを求めていた今までの生き方を、根底から変えられるか否かにかかっていると言っても過言ではないでしょう。 六道輪廻の廻り舞台御法歌「頼め彼岸へ法のふね」の中に、 現在は、苦もあれば楽もある人間界という舞台で芝居を演じていますが、舞台が回転すれば、他の世界の芝居を演じなければなりません。 地獄界は、願いが悉く叶わず、自分の思い通りにいかない為に怒り狂い、悪業の報いを受けて、ありとあらゆる苦しみに苛まれ続ける極苦の世界です。 餓鬼界は、有っても欲しい、無くても欲しいと、飽くなき欲望の奴隷となり、苦しみ続ける貪りの世界です。 畜生界は、人を押し退けてでも自己の願いを叶えようとする自我我執の世界です。 以上の三つは、苦しみばかりの世界で、三悪道(三悪趣)と呼ばれています。 修羅界は、人を妬ましく思う愚痴嫉妬の世界で、三悪道に修羅界を加えて、四悪道(四悪趣)と言われています。 人間界は、苦もあれば楽もある世界です。 最後の天上界は、願いがすべて叶い自分の思い通りになっている世界で、楽ばかりの世界です。 この六つの世界の内で、苦しみのない天上界が最も幸せな世界のように見えますが、天上界といえども、迷いの廻り舞台で演じられる六つのお芝居の一つに過ぎません。 ですから、必ず自分の思い通りにいかない時が訪れます。そうすると、再び舞台が回転して、地獄や他の世界を演じなければなりません。 しかも、六道輪廻の廻り舞台には終演がなく、未来永劫、六つの世界を演じ分けながら、終わりのないお芝居を演じ続けなければなりませんから、心の安らぐ暇がありません。 もし心安らかに生きたいと思えば、六道の廻り舞台から飛び出す以外に道はないのです。 有っても苦労、無くても苦労そもそも何故人は欲望の充足に幸せを求めるのかと言えば、自分が置かれている今の境遇に満足出来ず、不幸と感じているからです。 何か充たされないものがあり、それが充たされれば幸せになれると錯覚しているのですが、欲望が充足されても、本当の救いは得られません。 例えば、子供のいない夫婦が、子供を欲しいと願うのは、子供のいない事を不幸と考え、子供が出来れば幸せになれると錯覚しているからですが、子供のいる事が幸せとは限りませんし、子供のいない事が不幸とも決まっていません。 平成24年4月23日、京都府亀岡市で、通学途中の小学生と付き添いの保護者の列に、一晩中遊びまわっていた無免許の18歳の少年が運転する軽乗用車が突っ込み、小2年と小3年の児童、そして妊娠中の保護者の3名が死亡、7名が重軽傷を負うと言う悲惨な交通事故がありましたが、この少年の両親も、子供が出来た時は幸福に包まれていた筈です。 しかし、幸せをもたらしてくれる筈の子供が、大事故を起こし、人を死なせてしまったのですから、その幸福は偽りの幸福だった事が分かります。 貴船の脇坂リヨさまが、 例えば、以前、酒鬼薔薇聖斗と名乗る14歳の中学生が、児童を次々と殺傷する連続殺人事件がありましたが、この少年の親も、子供が生まれた時は幸せに包まれた筈であり、まさかわが子が、将来このような大事件を引き起こすとは夢にも思っていなかったでしょう。 この事例を見ても、子供が授かれば幸せになれるという保証などどこにもない事が分かりです。 日蓮上人は、 昔から、「親孝行したい時には親はなし」と言われますが、今は、「親孝行したくないのに親がいて」と言われる時代だそうですから、世の中も変わったものです。 病気をする事、子供のいない事、思い通りにいかない事だけが苦労なのではありません。健康になったらなったで、子供が出来たら出来たで、またそこから新たな苦労が始まるのです。 人間の欲には限りがなく、病気をしていた時は、健康になる事だけを願い、子供のいない時は、子供が授かる事だけを願い、願いが叶えば幸せになれると錯覚していますが、願いが叶ったら叶ったで、またそこから新たな欲望が芽生え始め、次から次へと生まれる苦労との果てしないイタチごっこが始まるのです。 合掌
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紅梅 |
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