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心安らかに生きる為に(3)極楽と地獄の在り処六道と極楽を全く別のものと見ている人は、「何故、目覚めた場所が極楽になるのか、何故そんな不思議なことが起こるのか?」と疑問に思うかも知れませんが、六道は、私たちが無知無明の心によって作り出した架空の世界ですから、極楽に居る私たちを離れては存在しません。つまり、六道も、極楽の中にあるのです。 或る浄土経典によれば、極楽は、苦しみ多きこの世界から十万億土も離れた彼方にあると説かれていますが、十万億土彼方とは、仏様がおられる世界を一仏国土として、十万億の仏国土を越えた彼方という意味です。 この教えをそのまま信じれば、極楽は、宇宙の果ての果てまで行かなければ存在しないことになりますが、そんな宇宙の果てまで行く必要はありません。 何故なら、今もお話したように、極楽に居る私たちが、み仏に背を向けて六道を作っているに過ぎず、み仏に目を向けさえすれば、いつでも六道は消えて無くなり、元の極楽が現れるからです。 私たちは、今まで一度も極楽から出たことはありませんし、これからも極楽を出る事は決してありません。 生死の中の善生六道輪廻の夢から目覚めさえすれば、誰でも極楽へ戻れることが、これでお分かり頂けたと思いますが、一つ忘れてはいけないことがあります。 それは、六道の中で極楽へ帰れるのは、人間だけだということです。人間の身を与えられた今しか、極楽へは帰れないのです。 『涅槃経』に、「一切衆生悉有仏性」と説かれていますが、一切衆生とは、人間を含めたあらゆる生きとし生けるものを指します。 ですから、六道から目覚める機会は、生きとし生けるものすべてに平等に与えられているように見えますが、実際に六道の夢から目覚めるチャンスがあるのは、人間だけなのです。何故なら、極楽へ帰る上で欠かせない菩提心を起こせるのは、人間界だけだからです。 前にも述べたように、人間界より下にある地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪道は、苦しみばかりの世界である為、菩提心(信仰心)を起こすことが出来ません。 例えば、私たちの周囲にいる犬や猫をはじめとする様々な生き物たちが合掌して、苦しむ人々を救いたいと祈り、神仏を拝んでいる姿を見たことがあるでしょうか? 畜生界に生まれた犬や猫たちは、自分の本当の正体はおろか、極楽という世界があることさえ知りません。勿論、迷いの夢から目覚めたいという心を起こす事もありませんし、信仰心もありません。ただ毎日、寿命が尽きるまで、食欲、性欲、睡眠欲の赴くままに生きているだけです。 では人間界より上にある天上界はどうかといいますと、天上界は、逆に苦しみがないため、苦しみから救われたいという心(菩提心)を起こすことが出来ないのです。 二十八ある天上界の一番上にある世界を有頂天(うちょうてん)と言いますが、何もかも思い通りにいって天狗になっている人のことを「有頂天になっている」と言うように、有頂天に居ると、自分の思い通りになって満足しているため、救いを求めようとする心が起こせないのです。 「平家に非ざれば人にあらず」と豪語した平清盛も、「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」と喝破し、栄耀栄華を極めた藤原道長も、百姓の息子から天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉も、みな有頂天にいた人たちです。 勿論、天上界も、迷い(四苦八苦)の世界の一つに過ぎませんから、やがて思い通りにいかなくなる時が必ず来ます。 平家一族も藤原道長も豊臣秀吉もみな、有頂天の絶頂期から、瞬く間に地獄のどん底へ堕ちていったことは、歴史が示す通りです。 自分の思い通りに行っている時は、有頂天でいられても、思い通りに行かなくなると、たちまち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間の世界へ堕ちていかねばならないのが、明日をも知れぬ六道に生きる天上界の人々の悲しい姿なのです。 下天の内をくらぶれば織田信長が桶狭間の合戦の出陣の前、自ら謡い舞った幸若舞『敦盛』に出てくる、 因みに、下天の寿命は五百歳と云われ、人間界の九百万歳に相当しますが、最上位にある有頂天の寿命は、何と人間界の八万四千劫(362兆8800億歳)に相当すると云われています。 しかし、それほどの寿命であっても、死はいつか必ず訪れます。そして、死を前にした時、天上界の人々に現れる五つの兆しが、「天人五衰」と言われる衰退の兆候です。 幾ら天上界で甘い夢に酔いしれていても、必ず宴の終わる時が訪れ、再び地獄界や餓鬼界に堕ちていかなければならないのです。 だからこそ、一刻も早く六道の夢から目を覚まし、魂の故郷である極楽へ帰らなければならないのですが、一時の甘い夢に酔いしれて満足している天上界では、極楽を目指そうという菩提心を起こせません。 極楽に帰りたいと思えるのは、苦しみがあるからですが、天上界は、苦しみがないため、菩提心を起こせないのです。また四悪道は、逆に苦しみばかりの世界であるため、こちらも菩提心(信心)を起こす心の余裕がありません。 道元禅師が、「生死の中の善生、最勝の生なるべし」(人間界が、六道の中で最も勝れた世界である)と説いておられるのはその為で、苦もあれば楽もある人間界だけが、菩提心を起こすには最も勝れた世界なのです。 人間に生まれて最も幸せなこと何を幸せと感じるかは人ぞれぞれで、百人百様の幸せがあると言っていいでしょう。 世の中を見れば、社会的成功を治め、立身出世が出来ることを人間の幸せと感じる人もいれば、社会的な地位や名誉を得て、人から尊敬されることが幸せだと感じる人もいます。そして、その願いを叶えるため、身を粉にして懸命に頑張っている人々が大勢いることも事実です。 しかし、立身出世が出来たり、地位や名誉が得られたり、人から尊敬されたり、或いは、美味しいものが食べられたり、立派な家屋敷に住めることが、人間にとって本当に幸せなのでしょうか? 確かに食欲、性欲、睡眠欲の赴くまま、生まれたままの姿で生きている野生の生き物たちに比べれば、私たちが、人間に生まれた者にしか得られない幸せを享受していることは間違いないでしょう。 しかし、人間に生まれた本当の幸せとは、六道輪廻の人生に終止符を打ち、自分の本当の姿に目覚めて、魂の故郷である極楽に帰るチャンスを与えられたことなのです。 真実の自分の姿に目覚め、魂の故郷である極楽へ帰らせていただける千載一遇の好機に巡り合わせていただけたことに勝る幸せなど、どこにもありません。 社会で成功する事も、地位や名誉を得ることも、人から尊敬されることも、勿論意味のあることでしょうが、魂の故郷である極楽へ帰らせて頂けることの幸せには、比べるべくもありません。 ましてや、この世の栄耀栄華を手に入れることなど、まぼろしの如き儚い夢に過ぎません。 一介の百姓の身分から天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉は、地位も名誉も富も権力もすべて手に入れ、この世の栄耀栄華を極めた数少ない成功者の一人ですが、最後は、わが人生を振り返り、露の如き儚い人生だったとの寂しい辞世の句を残して旅立っていきました。 豊臣秀吉は、立身出世や地位や名誉や権力や富を得ることに人間の幸せを求め、生涯をかけてその全てを手に入れ、天上界の一番上にある有頂天にまで上り詰めたのです しかし、願ったすべてを手に入れても抗えない死という現実を前にして、改めてわが人生を回顧し、自分が求めていた幸せとは何だったのかを自問自答して詠んだのが、この辞世の歌です。 この歌には、臨終の床で死という現実と向き合い、天下人であっても浪花の露と消えていかねばならない秀吉の哀しみが、よくにじみ出ています。 そんな秀吉と対照的なのが、お大師様です。お大師様は、御入定されるに当たり、 御入定とは、法身をこの世に留めて、苦しむ人々の救世主として生き続けることですが、このご誓願には、常に苦しむ衆生と共に生きることを決意されたお大師様の深い慈悲心があふれています。 お大師様は、秀吉と違い、地位も名誉も富も権力も手に入れられた訳ではありません。にも拘らず、お大師様の御霊跡である紀州高野山や四国八十八ヶ所霊場には、いまなお大師様の救いを求めて、多くの人々がやってくるのです。 己が生涯を省みて儚き夢だったと嘆いて旅立った秀吉と、いまも多くの人々から救世主(生き仏)として慕われるお大師様の生き方の違いが、お二人の今を決定づけていることは間違いないでしょう。 万劫にも得難きは人身なり人間界に生まれたという事は、魂の故郷である極楽へ帰るスタートラインに立った事を意味します。 しかし、「万劫(まんごう)にも得難きは人身なり」と説かれているように、極楽へ帰れる唯一のチャンスとも言うべき人間界に生まれてくることは、そう簡単なことではありません。 一劫とは、天女が地上に降りて来て、着ている薄い羽衣の袖で、四十里四方の大きな岩を百年に一度ずつ拭い、岩が擦り切れて無くなるのに要する期間、又は四十里四方の巨大なお城に芥子粒を満たし、百年に一度、天女が地上に降りて来て、その芥子粒を一粒だけ取り出し、お城に満たした芥子粒をすべて取り除くのに要する期間のことです。 一劫でさえそうなのですから、万劫ともなれば、もはや人間に生まれてくることは不可能と言っても過言ではないでしょう。まさに人間に生まれて来れたことは、あらゆるご利益を頂いた結果なのです。 そして、この地球上に、どれだけの生き物がいるのか知りませんが、極楽に帰れるのは、人間の身を与えられた私たちだけなのです。 つまり、人間の身を与えられた今生の内に、極楽に帰らせていただかなければ、チャンスはもう二度と巡ってこないかも知れないということであり、だからこそ、人間の身を与えられたこの千載一遇の好機を、決して逃してはならないのです。 合掌
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紅梅 |
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