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心安らかに生きる為に(7)道は二つに一つ分別心を捨てられたかどうかを確かめる方法があります。 もしみ仏から、「苦しむ人々を救う為に地獄へ行かなければいけない。私と一緒に地獄へ行ってくれませんか」と言われた時に、「申し訳ありませんが、地獄はご勘弁下さい。極楽へ帰りたいのです」と答えるか、それとも「衆生済度のお手伝いをさせて頂けるのであれば、喜んでお伴をさせていただきます」と答えられるか、どちらの道を選ぶかということです。 もし、み仏から、「今から極楽へ往きますが、一緒に来ますか」と言われたら、みんな喜んで「はい、お伴します」と答えるでしょう。極楽は誰にとっても好都合だからです。 しかし、「地獄へ一緒に来てくれませんか?」と問われたら、殆どの人は躊躇し、断るに違いありません。そこに、好都合と不都合を分別する心が働いているからです。 しかし、その分別心を捨てなければ、本当の極楽は見えてきません。 この選択が出来るか否かによって、すでに六道から飛び出せているか、まだ飛び出せていないかが分かります。 まだ六道の夢を見続けている内は、「一緒に地獄へ行ってくれませんか?」と頼まれても、「はい」とは答えられないのです。分別心がまだ残っているからです。 しかし、六道の夢から目覚めていれば、もはや分別心はなく、苦しいと思っていた地獄もすべて妄想であり、架空の世界であることが分かっていますから、「はい、喜んでお伴させていただきます」と答えられるのです。 「地獄と極楽とどちらへ往きたいですか?」と尋ねたら、全員から極楽という答えが返ってきたのは、極楽が魂の故郷であり、仏の子だからですが、この答えから分かることが、ひとつあります。 それは、こう尋ねた時は、まだ全員が六道の夢から目覚めていなかったということです。 目覚めていれば、「たとえ地獄であっても、み仏とご一緒なら行かせていただきます」と答えられる筈です。 そう答えられなかったのは、まだ完全に目覚めていなかったからであり、分別心が残っていたからです。 「地獄へは行きたくない」としか答えられなかった人が、「地獄でもどこでも、お伴をさせていただきます」と答えられるようになって、ようやく六道の夢から目覚めたと言えるのです。 真の地獄、極楽とはこう考えてくると、地獄が真の地獄ではないことが分かります。 たとえ地獄であろうと、お大師様、菩薩様と一緒に行かせていただけるところなら、そこはもはや地獄ではなく、極楽なのです。 逆に、お大師様、菩薩様が居られず、心の依りどころもないところは、たとえ極楽であっても、地獄と同じです。 菩薩様が、「私が道案内をしていけば、仮にこの世の縁が切れても、みんな、私のところへ来ることがもう決まっています。死ぬのはいやだと思う人もいるかも知れませんが、死ぬということは、今晩一晩寝たら明日が来るのと同じことです。私の行くところは素晴らしいところです」とおっしゃっておられたように、榎フサ子さんも、藤田照心さんも、木原一枝さんも、大原亀夫さんも、みんな菩薩様の下へ帰られました。 すでに菩薩様と一心同体ですから、菩薩様がどこにおられようが、菩薩様のおられるところが極楽である以上、この方々も極楽にいることは間違いありません。 生きるも死ぬもみんな好しもうお分かりのように、地獄を作っているのは、極楽は好いが地獄は嫌だという分別心です。極楽は、その分別心を離れたところにあります。 よく「この世が地獄の苦しみなら、あの世はきっと極楽ですよ」と言われるお方がいますが、そうではありません。 地獄極楽を作るのは自分ですから、極楽も地獄も、自分の行く所にあるのです。 自分がこの世に居れば、この世の中に地獄極楽があり、あの世へいけば、あの世に地獄極楽があるのです。 そして、この世に居ても、あの世に行っても、自分が極楽へ帰れる心にならなければ、極楽には往けません。 極楽へ帰れる心とは、たとえ地獄であっても、お大師様、菩薩様と一緒なら喜んで行かせて頂きますと言える深い信心です。 ですから、菩薩様は、道歌の中で、 み仏様の救いの御手の中であれば、生きる事も、病むことも、死ぬことも、地獄さえも、すべて好しです。 この歌には、先ほど言った道元禅師のお言葉も、良寛さんのお言葉も、お大師様のご誓願もすべて凝縮されていると言っていいでしょう。 蓮華の台座の意味不都合な事も一切を受け入れるみ仏の心を象徴しているのが、仏様が台座にしておられる蓮華です。 蓮華は、ご承知のように、一切の汚物が流れ込む汚泥の中に根を張って、しかも、その汚泥に染まらずに、美しい花を咲かせます。 汚れたところへ行けば汚れに染まるのが普通ですが、蓮華は染まらないのです。 蓮華には、「泥中不染」と言われる、どんな汚れをも栄養素として取り入れ、汚れを濾過して綺麗な花を咲かせる浄化力があるからです。まさに、巨大な濾過装置と言っていいでしょう。 み仏も同じで、どんな汚れを身に受けても、一切染まらず、しかもその汚れを浄化して、美しい悟りの花を咲かせるのです。 どんな汚れにも染まらないのは、どんなに不都合なことでも在るがまま受け入れて浄化し、感謝の心に変える悟りの智慧を持っておられるからで、まさに、蓮華が、み仏の台座に選ばれている所以の一つと言っていいでしょう。 蓮華が台座に選ばれるもう一つの理由は、「華果同時」の徳を持っているからです。 普通の草花は、先ず花が咲き、その花が雌しべと雄しべの交配によって実になりますが、蓮華は、花の中にすでに実を宿しています。花が咲いて実になるのではなく、花と実が同時についているのです。 これが、蓮華の特徴である「華果同時」の徳で、何を現しているかと言いますと、『涅槃経』に、「一切衆生悉有仏性」と説かれているように、すべての衆生は、生まれた時から、すでに仏様の種を宿していることを現しています。 その仏性の種を育て、菩提心、慈悲心を養うことが、まさに六道の夢から目覚めて、極楽浄土へ帰らせていただくことになるのです。 合掌
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紅梅 |
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