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おわりに王様と象の譬え話このホームページをご覧になられた皆さんは、今どのような感想を抱いておられるでしょうか。 「まだ湧いていない地下水が、歯ブラシ立てやグラスに溜る筈がない。 しかし、ここで皆さんにご感想をお聞きしたのは、どのお方のご感想が正しくて、どのお方のご感想が間違っているなどと言いたい為ではありません。 また、ここに書かれている事を素直に信じて欲しいと願っているからでもありません。 百人のお方が読まれれば、百通りの思い方があり、千人のお方が読まれれば、千通りの感じ方があるのは当然であり、誰もが同じ感想を抱かれる筈がありません。 もし百人が百人、千人が千人とも同じご感想を抱かれたとすれば、その方が不自然であり、それこそ奇蹟ではなく、異常と言わなければならないでしょう。 しかし、次のような譬え話があるのを、ご存知でしょうか。 王様が、目の見えない人々を集めて象を触らせ、「象とはどのようなものか」とお尋ねになったところ、象の牙に触った人は「細長くて湾曲し、先のとがった丸い棒のようなものです」と答え、象の鼻に触った人は「くねくねと動く丸い筒のようなものです」と答え、象の足に触った人は「太い柱のようなものです」と答え、象の耳に触った人は「平べったくて、パタパタと揺れる大きな団扇のようなものです」と答えたのです。 そして、自分が触った部分を象だと思い込んでいる彼らは、自分こそが正しいのだと主張して互いに譲らず、ついに争いが始まったと言うのです。 二つの視点この話は、非常に示唆に富んだ譬え話だと思いますが、目の見えない人々の答えを正しいと見るか、間違っていると見るか、これもまた人それぞれであろうと思います。 象の牙も象の鼻も象の足も象の耳も、象の一部である事に間違いはありません。そして、象の牙は、細長くて先のとがった丸い棒のようであり、象の鼻は、くねくねと動く丸い筒のようであり、象の足は、太い柱のようであり、象の耳は、平べったい大きな団扇のようなものですから、目の見えない人々の視点に立てば、象の牙を触った人の答えも、鼻を触った人の答えも、足に触った人や耳に触った人の答えも、みな正しい事になります。 しかし、それは、一つの真理ではあっても、象の全体像を捉えたものではありませんから、象の全体像を見ている王様の視点に立てば、どの答えも、みな間違っている事になります。 つまり、彼らの答えは、正しいとも、間違っているとも言える訳ですが、正しいと見るか、間違っていると見るかは、ひとえに目の見えない人々の視点に立つか、全体を見ている王様の視点に立つかにかかっています。 目の見えない人々は、自分だけが正しく、他はみんな間違っていると主張して譲らなかった為、争いが始まったのですが、目の見えない人々の視点に立っている限り、何が正しくて、何が間違っているかの正しい判断は不可能といわねばなりません。 何故なら、彼らには、象の全体像が見えていないからです。 彼らの答えが正しいか、間違っているかの判断は、象の全体像が見える王様の視点に立って初めて可能なのです。 ですから、彼らが「自分の答えは正しい」と主張しているのは、間違いではありませんが、「自分の答えだけが正しい」と言うのは、彼らの思い込みに過ぎません。 象の全体像が見えれば、「自分の答えも正しいが、他のみんなの答えも正しい」という答えが返って来るからです。 しかし、哀しいかな、目の見えない彼らには、それが分りません。そこが、彼らの思い込みの最大の原因であり、全体像が見えない人々の悲劇です。 この視点を乗り越えられない限り、真相は見えて来ませんし、いつまで経っても争いが終わる事はありません。 対立を乗り越え、争いを鎮めるには、どうしても全体像が見渡せる王様の視点に立つ以外にありません。王様の視点に立つ事が、真相を明らかにし、争いを鎮める唯一の道なのです。 王様の願い目の見えない人々の答えが正しいか、間違っているかの判断は、象の全体像が見える王様の視点に立って初めて可能だと言いましたが、確かに、王様の視点に立てば、誰の答えが正しく、誰の答えが間違っているかは一目瞭然です。 しかし、王様の真意は、彼らの答えの正否を明らかにする事ではありません。ましてや、象の全体像が見える自分の答えだけが正しい事を主張したい為でもありません。目の見えない人々に正しい答えが出せない事は、最初から分かっている事であり、自分だけが正しい事を主張しても何の意味もありません。 では何故、わざわざ目の見えない人々に象を触らせ、象とはどのようなものかを問われたのでしょうか。王様の真意は、一体どこにあるのでしょうか。 王様は、目の見えない人々が互いに、自分の答えだけが正しく、他の答えはみな間違っていると主張するであろう事を見通された上で、そう問われたのではないでしょうか。つまり、王様は、最初から争いが始まる事を承知の上で、そう問われたのです。争いが始まるのを期待していたと言ってもいいでしょう。 そして、目の見えない人々は、王様が意図した通り、自分の答えだけが正しいと主張して譲らず、ついに争いを始めたのです。 争いの種を蒔いて罪もない人々を争わせるとは、何と非情な王様だと、非難する声が聞こえてきそうですが、確かに争いが始まるきっかけを作ったのは王様であり、争いがこれからも永遠に続くようなら、王様は非難されて然るべきでしょう。 しかし、王様の願いは、彼らの争いが永遠に続く事ではない筈です。王様は、彼らを争わせる事によって、誰の答えが正しいかを言い争うより、もっと大切な事がある事を悟って欲しかったのではないでしょうか。 つまり、何故、人は争い、憎しみ、傷付け合わなければいけないのか、そして、争いを鎮め、憎しみから救われる為にはどうすればよいのか、解決の糸口は何なのかを、争いの中から悟って欲しいから、敢えて争いの種を蒔かれたのではないかと思うのです。 勿論、争いの種を蒔くのは、口で言うほど簡単ではありません。一歩間違えば、彼らを永遠に争いの渦中に埋もれさせ、子々孫々までも破滅に導く恐れがあるからです。幾ら偉大な王様でも、躊躇するに違いありませんが、王様は、敢えて種を蒔かれたのです。 何故、争いの種を蒔く決心をされたのでしょうか。王様にそう決心させたものは何だったのでしょうか。 その理由は、一つしかありません。即ち、王様は、目の見えない人々の叡智を信じたのです。否、信じる事が出来たと言うべきでしょう。 何故、信じる事が出来たのかと言えば、彼らが、王様にとってかけがえのない、わが子も同然の人々(王国を支える民)だったからです。親だけがわが子を信じられるように、わが子同然の人々だからこそ、信じる事が出来たのです。 「わが民なら、争いを始めても、必ずそれを乗り越え、争いを終らせる事が出来る筈だ。彼らにはその叡智が具わっている」 そう信じる事が出来たから、王様は敢えて争いの種を蒔く決心をされたのです。 井の中の蛙、大海を知らずもうお気付きだと思いますが、この譬え話に出てくる王様と目の見えない人々とは、み仏と、私たち衆生(人類)の事です。 この譬え話は、私たちが、自らの眼で見、耳で聞き、学び、教えられ、体験してきた事以外の事を理解し、受け入れる事がいかに難しいかを教えています。 目の見えない人々が、自ら触った象の一部分を、象そのものと思い込んだように、私たちもまた、自分の身の丈のものしか、見る事も理解する事も出来ないのです。 所詮、私たちはみな、知ると知らざるとに拘らず、「井の中の蛙、大海を知らず」の蛙であります。 勿論、かく言う私も、井の中の蛙の一人である事は言うまでもありませんが、大切な事は、自分が井の中の蛙である事に気付いているか否かという事です。 それによって、大いなる世界へ飛躍できるか否かが決まると言っても過言ではないでしょう。 井の中の蛙である事に気付く事が出来れば、狭いちっぽけな世界から、無限に広がる大海原に飛び出す道が開けてきますが、気付く事が出来なければ、井の中で一生を暮らさなければなりません。 井の中の蛙で思い出すのは、西遊記(注1)に出てくる孫悟空です。この話は、皆さんもよくご存知だろうと思いますが、孫悟空にとって最大の転機となったのは、三蔵法師との出会いです。 不老不死の仙術を会得し、一瞬にして十万八千里を飛ぶキント雲に乗り、伸縮変幻自在の如意棒を駆使して向かうところ敵なしであった孫悟空も、お釈迦様の掌から一歩も飛び出す事が出来ず、とうとう「五行山(ごぎょうざん)」という山の中に閉じ込められてしまいますが、その孫悟空を救ったのが三蔵法師です。 お釈迦様に高慢な鼻っ柱を圧し折られ、漸く自分の愚かさに気付いた孫悟空は、改心して三蔵法師のお供をする決心をするのですが、三蔵法師(仏法)との出会いが、狭い世界で有頂天になっていた孫悟空の心眼を開き、無限の大海に導いたのです。 この物語を読むと、いつも思うのは、目の見えない人々を信じて、争いの種を蒔かれた王様の深い慈悲心です。 きっとお釈迦様も、孫悟空なら、この試練を乗り越えて、大海原へ飛躍出来るであろうと信じて、孫悟空を五行山へ閉じ込められたに違いありません。 そして、お釈迦様の願い通り、孫悟空は大きな試練を乗り越えて心眼を開き、三蔵法師のお伴をして天竺へ向かうのですが、この孫悟空の話は、私たちにとって決して架空の物語ではありません。 孫悟空は、架空の物語の主人公ではなく、実は私たち自身の姿でもあるのです。 無限の大海原へこのホームページを読まれ、「まだ湧いていない地下水が、歯ブラシ立てやグラスに溜る筈がない。作り話だ」と感じられたお方も、「自分も同じような不思議な体験をしているから、信じられる話だ」と頷かれたお方も、「自分には関係のない話だ」と思われたお方も、みなそのお方にしか出せない答えやご感想を出して下さったと思います。 そして、どのお方のご感想もみな、あなたがあなたとして生きて来られた証であり、それぞれの思い方、感じ方の中には、皆さんが今まで学び、教えられ、体験してきた事の全てが凝縮されているに違いありません。 しかし、それが、あなたがあなたである事の全てかと言えば、そうではないと思います。 あなたの心の奥底にはまだ、あなた自身も知らない、今まで一度も掘られていない無尽蔵の宝物が埋もれている筈です。あなたの目の前には、無限に広がる真理の大海原が広がっているのです。 そして、その無尽蔵の宝物を掘り当てるか否か、大海原に漕ぎ出すか否かを決めるのは、あなた自身です。 勿論、あなたの背後には、片時も離れずに、あなたを信じ、見守っておられるみ仏がおられます。たとえあなたがみ仏の気配を感じられなくても、み仏はあなたを信じ、その行く末を見守っておられます。あなたがみ仏から信じられている一人である事は、疑う余地がありません。いついかなる時も、その事を忘れないでいて下さい。 かく言う私も、皆さんと同じように、み仏から信じられている一人です。だからこそ、少しでもその願いにお応えしなければと思いつつも、まだ私には、無限に広がる大海原のほんの一滴しか観えていません。 しかし、お大師様、菩薩様という生き仏様のお導きによって、いま無限の大海原の真っ只中にいる事だけは間違いありません。 そして、この心眼に観えたものが、たとえ真理の大海のほんの一滴であったとしても、それは、想像を絶する素晴らしい感動の世界を垣間見せてくれる一滴である事もまた間違いありません。 このホームページを通して、どこまでその感動の一端をお伝え出来たかは分かりませんが、今日ご縁があってお参り下さった皆様が、一人でも二人でも、何かを感じて下さり、明日に向って生きる糧として下さるなら、これにまさる喜びはありません。 本日は、「救いの扉」へお参りいただき、有難うございました。またのお参りを心よりお待ちしております。 心拝 宗教成合の郷 | ||
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屋久島石楠花 |
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(注1)唐僧玄奘三蔵が、インドから仏教経典を持ち帰った求道の旅を記録した「大唐西域記」をモデルにして書かれた伝奇小説で、中国四大奇書の一つ。三蔵法師が、孫悟空、猪八戒、沙悟浄の三人の供を従えて、数々の試練を乗り越えながら、経典を求めて天竺へ旅する物語であるが、作者、成立年とも不明。
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