聖水の命名ー汗露水

この尊い聖水を、ただ地下水と呼ぶのは余りにも勿体ないと感じ、聖水にふさわしい名称を考える事にしました。菩薩様が流された代受苦の御汗に相応しく、一度聞いただけで心に残るような名称を付けたいと思い、色々思案したのですが、中々相応しい名前が思いつきませんでした。

「示現水」「お加持水」「お身代り水」等々、色々な名前が浮かんでは消えてゆき、自分の計らいをしている内は幾ら思案しても駄目だと、痛感せざるを得ませんでした。万事休した私は、「どうかこのお水に相応しい名前をお授け下さい」と菩薩様にお伺いを立てました。

すると、平成18年1月17日の午前四時過ぎ、ふと目が覚め、その瞬間、「かんろすい」という名称が頭に浮かんできたのです。しかも、名前だけでなく、漢字まで浮かんで来たのです。
今まで私が知っている「かんろすい」は、甘い露の水と書く「甘露水」でしたが、その時、頭に浮かんできた「かんろすい」は、「甘露水」ではなく、汗の露と書く「汗露水」でした。

最初は、「今まで色々と計らいをしてきたから、こんな名前が浮かんだのだろう」と思いましたが、「汗露水」の意味を調べていく内に、これは私が付けた名前でも、付けられる名前でもない事を確信したのです。

お釈迦様がお生まれになったインドは、ヒンズー教(バラモン教)の盛んな国ですが、インドにはソーマという植物があって、ヒンズー教の根本経典であるヴェーダによれば、ソーマの汁は神々の飲料で、不死の霊薬とされており、そのソーマの液汁の事を、ヒンズー教では甘露水と呼んでいます。
また仏教では、永遠に滅びない教えという意味で、仏法の事を甘露水と呼んでいます。
更に中国古来の伝説では、王が徳のある政治を行えば、竜神がそれに感応し、その瑞祥として甘い雨を降らすと言われており、その甘い雨水の事を甘露水と言います。

いずれにしても、甘露水というのは、不生不滅の霊薬と見做されているばかりか、滅びる事のない仏法そのものに譬えられており、法徳寺の地下から湧いた聖水の呼び名として、これ以上相応しい名称はないと確信したのです。

汗露水と命名されたみ心

それにしても、何故「甘露水」ではなく「汗露水」なのでしょうか?

まず考えられるのは、この聖水が、菩薩様の代受苦の御汗を意味する聖水であるという事です。「甘露水」と書いたのでは、このお水が菩薩様の代受苦の御汗である事がわかりませんが、呼び名は「かんろすい」でも、使われている漢字が「汗露水」であれば、文字通り、代受苦の御汗を意味する聖水である事が誰の目にも明らかだからです。

もう一つは、この「汗」という文字に、体から流れる汗の他に、王という意味があるという事です。

最近、角界では、朝青龍や白鵬、日馬富士など、モンゴル出身の力士が大活躍して人気を集めていますが、モンゴル系遊牧民の間で王者の称号として用いられているのが、「カン(ハン)」と言う文字で、漢字で「汗」と書くのです。モンゴル帝国を築いたテムジンは、王であるカン(ハン)の位に就き、ジンギスカン(チンギスハン)と名乗った事は、よく知られていますが、ジンギスカン(チンギスハン)は、漢字で「成吉思汗」と書きます。

私たち日本人は、お尻に、蒙古斑という青あざを付けて生まれてきますが、世界で蒙古斑があるのは、日本人とモンゴル人だけなのです。ですから、モンゴルで王者を現す「汗」という言葉が、同じ蒙古班を持つ日本人である菩薩様の代受苦の御汗を意味する聖水の呼び名に使われていたとしても不思議ではありません。何故なら、菩薩様もまた、仏の王である大日如来の覚位を得られたお方だからです。

菩薩様が四国第二十一番札所の太龍寺で、お大師様より「普門法舟」という名前を授けられた事は周知の事実ですが、この「普門」という名前は、お大師様が頂かれた「遍照金剛」と同様、仏の王である大日如来の別名です。その名前が菩薩様に与えられたという事は、菩薩様がまさに仏の王である大日如来の覚位を得られた証と言えましょう。

モンゴル帝国を築いたテムジンに王者を意味する「汗」の称号が冠せられたように、大日如来の覚位を得られた菩薩様が流しておられる代受苦の御汗の呼び名に、王者を意味する「汗」の文字が使われていたとしても不思議ではありません。
その真相がわかってくると、この聖水に「汗露水」の名前が名付けられた本当の意味もわかってきます。

要するに、「汗露水」という名称には、「代受苦の御汗」という意味の他に、「仏の王者の御汗」という意味も込められていたのです。「汗露水」という名称は、仏の王者である大日如来の覚位を得られた菩薩様が流された代受苦の御汗である聖水に最も相応しい名称だったのです。勿論、このような素晴らしい呼び名を、私が付けられる筈もなく、きっと菩薩様が自ら、私を通じて付けられた呼び名に違いありません。

汗露水にひれ伏す僧侶の群れ

平成18年4月13日の春季大法要に、高野山法徳寺へ帰郷された御同行のKさんが、「汗露水がいかに尊い聖水であるかを物語る、とても感動的な夢を見せていただきました」と言って、次のようにお話して下さいました。

夢の中で、汗露水湧出の聖地を拝む御法嗣様の法衣が金色に輝き、大きなお姿になられました。前方の空があかね色に染まり、御法嗣様のお姿は、夢殿におわします身代り升地蔵菩薩様にお成りでした。光り輝く神々しい後ろ姿にひれ伏し、合掌の手がふるえていました。
そのお姿の影を避けようと後ろを見て、飛び上がるほど驚きました。法徳寺の広い広い境内が、墨染めの衣を召した大勢のお坊様で、真っ黒に染まるほど隅から隅までぎっしり埋めつくされ、汗露水湧出の聖地に向かい、深々と額ずくお姿でございました。お坊様のひれ伏し拝む前に私がいては恐れ多いと思い、法徳寺の入口のあたりでお坊様方をお迎えし、お見送りをしようと座しておりましたが、お一人として私の前をお通りになりませんでした。きっと、お大師様がおわします紀州高野山と同様、高野山法徳寺には菩薩様を敬い、お慕いし、仏法を学ぶ修行僧が、私たち凡人にはそのお姿こそ見えないけれど、大勢お住みになっておられることを、お知らせ下さったのだと思います。
しかも、一度ならず二度ならず、「この汗露水がいかに尊いか、決して忘れるではないぞ」 と菩薩様が仰っておられるかのように、汗露水湧出の聖地をひれ伏し拝むお坊様のお姿を、何度も何度も繰り返し夢に見させて頂きました。

Kさんは、感動の面持ちでこう話して下さいましたが、汗露水を拝んでいるのが、一般の人々ではなく、境内を埋め尽くした僧侶であるという事実が、汗露水の尊さを雄弁に物語っています。

真理を悟られたみ仏(仏宝)と、み仏が悟られた真理(法宝)と、その法を伝える人々(僧宝)を三宝と言い、三宝に帰依をすることが、仏教徒の最も大切な心得とされていますが、その帰依される立場にある大勢の僧侶が、大地にひれ伏しながら汗露水を拝んでいたという事から、汗露水がいかに尊い聖水であるかがわかります。

立ったままにせよ、座ったままにせよ、両手を合わせて拝むのが一般的な拝み方ですが、Kさんの夢では、大勢の僧侶が、大地にひれ伏して拝んでいたと言うのです。ひれ伏して拝むとは、所謂五体倒地をして拝むことで、五体倒地は、最も丁寧な礼拝の作法であり、僧侶達が大地にひれ伏し拝む姿を見れば、礼拝している対象が、いかに尊いものであるかがわかります。

三宝の一つに数えられる僧侶が礼拝するこの世で最も尊いものと言えば、み仏と真理(仏法)以外にはありませんが、境内を埋め尽くした大勢の僧侶が、汗露水に対して五体倒地をして額づいていたという事は、汗露水が、み仏と真理に匹敵するものである何よりの証です。

Kさんから夢のお話をお聞きして、改めてこの汗露水が、千年に一度いただけるか否かと言われる尊い聖水であることを再認識したのです。