仏教は偶像崇拝か?(2)

仏の自分に出会う

私たちは、自分で自分を見る事は出来ません。皆さんは、毎日、鏡に映った自分の姿をご覧になると思いますが、自分を見ようと思えば、鏡に映った自分を見る以外に方法はありません。

それと同じように、仏の自分に出会う為には、仏の自分を映してくれる鏡を持つ事が必要です。

仏の自分を映す鏡とは、この世の真理(法)であり、法の鏡に映った仏の自分を象ったものが仏像です。

つまり、仏像を拝むとは、真理の鏡に映った仏の自分を拝む事であり、仏教徒は、仏像を通して、自分の奥底に眠るもう一人の自分(仏の自分)と対面しているのです。

イスラム教徒は、自らが唯一神を拝むのと同じように、仏教徒も、創造主的な仏を拝んでいると考えているのかも知れませんが、これは大きな誤解です。イスラム教徒が拝む創造主的な神と、仏教徒が拝む仏は、根本的に違います。

京仏師の松久朋琳師は、『仏の聲を彫る』の中で、次のように述べておられます。

松久朋琳大仏師

「木の中の仏と出会うということと、自分の仏性と出会うこととは、同時なんですな。
最初のうちは、自己とはつまらんものだと思うてます。自分よりもっともっとすばらしい、いいものを彫りたいと思います。 そういうものを目指して、一生懸命やればやる程自分になってしまうのです。
全然自分に似ないものを彫りたい、私から逃げ出したいと思うても、どうしても自分自身から自分は逃げられまへん。
仏性という圧力がグッときて、逃がさしません。自分と違うものをと思うて、ドンドン彫っていく。そうして出来上がってみると、全部自分になってしまってます。
やっと出来上がったと得心したところが、自分になってしもてます。わたしそっくりにならんと、自分で出来た気にならんのです。自分になったときに、初めて、“出けてるな”と思うんですな。
そうしているうちに、これはわたしの知らないわたしが、もう一つわたしの奥にいて、わたしを見つめているのだな、ということを、フッと分からせて貰ろたんです。
わたしはその時、仏性というわたしの内面に突き当たっていたんですな。それが、仏の姿になって、私の前に出てきていたのです。
それが、あるとき、“ああそうやったのか”と、得心が出来たのです」

松久師がこう述べておられるように、仏教徒が仏像を拝むのは、イスラム教徒が絶対に成る事の出来ない創造主のような仏を、像に象って拝んでいるのではなく、自分の中のもう一人の自分(仏の自分)を、仏像を通して拝んでいるのです。仏師の立場で言えば、木の中から仏を彫りだす作業を通して仏の自分に対面しているのです。

ですから、唯一神とイスラム教徒の関係のように、越えがたい壁はありませんし、自分と仏との間は断絶していません。

イスラム教徒から言えば、人間が唯一神になる事などありえませんし、それは神を冒涜する行為になりますが、仏教徒が仏になるのは当たり前であり、仏に成らない事の方が、仏を冒涜する事になります。何故なら、私達は本来仏であり、今はただその事に気づいていないだけだからです。

仏教徒が仏像を拝むのは、イスラム教徒が言うように、自分ではない神仏を像に刻み、偶像として拝んでいるのではない事が、少しお分かり頂けたのではないでしょうか。

草木また成ず、いかにいわんや有情をや

『涅槃経』の中に、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という言葉があります。

すべての人々は、仏となるべき本性(仏性)を具えているというこの考え方は、大乗仏教の根本思想の一つですが、インドから、中国、朝鮮を経て日本へ伝えられたこの思想は、やがて「仏性を具えているのは人間だけではない」という思想にまで進化してゆきます。

弘法大師様は、『吽字義』の中で、
 「草木また成ず、いかにいわんや有情をや。草木に仏なくば、波にすなわち湿なけん」(心がないと思われている草木ですら成仏するのだから、人間が成仏しない筈がない。もし草木に仏性がなければ、波に潤いもない事になってしまう)
 と説いておられますが、草木にさえ仏性があるという教えは、日本で開花した独自の教えです。日本でしか開花し得なかった教え、日本だからこそ開花し得た教えと言ってもいいでしょうが、日本人は昔から、木や草や山や海や川や石など、森羅万象の中に神の存在を感じ、畏敬の念を抱きながら、大自然と共に生きてきました。

そんな風土の中で育った日本人が、「一切衆生悉有成仏」を説く大乗仏教の思想を受け入れ、更に進化させていったとしても不思議ではなく、むしろ必然的結果なのです。

「草木国土悉皆成仏」「山川草木悉皆成仏」という言葉がありますが、このような考え方が生まれてきたのも、長年に亘って培われてきた日本の風土や日本人の気質を考えれば、当然とうなずけます。

一神教のように、大自然を心のないただの物質に過ぎないと見る考え方は、少なくともわれわれ日本人の心の中にはありませんし、育まれてこなかったのです。

イスラム教は、仏教を偶像崇拝だと言って批判しますが、この批判は、少なくとも「草木また成ず」という考え方が根底にある仏教には当てはまりません。

人間だけではなく、自然界すべてに仏性があり、仏として光り輝いているという考え方からすれば、仏像は、石や木や金属を心のない物質と見なして作ったものではなく、それらの中に流れる仏のいのち(仏性)を、形として現したものに他なりませんから、石や木や金属の中から仏像という形が生まれてくるのは、むしろ当たり前なのです。

その事を肌で実感してこられたからこそ、松久朋琳師は、「仏像が偶像なのではなく、自然を心のない物としか見ることの出来ない殺伐とした心が、仏像を偶像化してしまうのです」と述べておられるのですが、まさに言われる通りで、私達は、仏像を偶像にするもしないも、すべてわが心の為せる業である事を知らなければなりません。

松久朋琳師は、更に続けて次のように述べておられます。

「仏さまは、大自然の中にも、わたしら一人一人の胸の内にもおられます。合掌する心があれば、どこにでもおられます。
言い換えれば、その心がなければ、野を歩こうと、お寺へ参ろうと、座っていようと、仏さまはいらっしゃいません。
大切なことは、仏さまを拝む気持ち、安置する心具合と違いますやろか。
「仏像を拝むなんていうことは、偶像崇拝やないか」と言わはる方がおられます。けれども、それはちょっと違うと思いますのや。逆やないか、と思うのですわ。
そこに本当にみ仏が宿っているのだと信ずる心、求める心が、仏像を生み出したと思いますのや。
山にも川にも、草にも木にも、仏の慈悲の姿を観る、そんなきれいな素直な心が、仏像を生み出したのと違いますやろか。
自然をものとしか見られない寒々とした心が、かえって仏像を偶像にしてしもたと思うのですわ。
人間はみんな「絶対」というすばらしいものをわたしらの心の中にくくりつけとるのです。「仏性」という絶対なものを。
大きな大きなすばらしい宝を持っておりますのや。
それに気がつかんだけなのです。あんまり近いものは、分からんのですな。
物でも、自分から離れていれば見えますけれど、目にくっつけてしもたら、もう何が何ンや、わけが分からしません。
富士山かて、離れて見ていればこそ、美しくも大きくも見えるのですな。それが、富士山に昇ったら、“どこに富士山あるのかいな”ということになるのと一緒です。近いもの程分からないのですな。
それと同じことで、自分は自分が一番わかりません。人のことは分かるけれども、自分のことは分かりまへん。
まして、仏性というもんは、自分のなおその奥にある。自分が分からないのにその奥にある仏性なんて、わかる訳がない。また、心の中のものを引っ張り出してみるということもできません。
それで、これを仏像という形にして皆さんの前に置く。それを離れて拝みますと、ああ、仏さんてこういうものか、心の中にある永遠不滅の存在とはこういうものかということがわかって頂ける。
いまここに肉体としてある自分の姿は仮りの姿であって、本体というものはみ仏のように永遠不滅のものであったのか……、と悟る、これがみ仏を拝むということの、本当の姿やと思うのです。
自分の姿を自分が拝む。
わたしはそれを、長い間み仏を彫りまいらせる中で教えて貰うたのです」

超越的神と内在的仏との根本的な違い

イスラム教徒が拝む唯一絶対神が、この宇宙に存在する何物でもなく、それらを超えた「超越的存在」であるとすれば、仏教徒が拝む仏は、この宇宙に存在するありとあらゆるものの中にまします「内在的存在」と言っていいでしょう。

バーミヤン石仏

自分を含め、ありとあらゆるものの中にまします内在的存在であるみ仏とまみえる為、仏教徒は深く自己の内面を掘り下げ、仏師は木の中のみ仏をお迎えするべく、こつこつと鑿をふるうのです。

松久師は、み仏を刻んでいると、自分と木の中のみ仏が渾然一体となって、自分が仏なのか、仏が自分なのか分からなくなってしまうと、その時の感動を次のように述べておられます。

「世間ではよく、仏を刻んでいるわたしをわたしやと、つまり松久朋琳という名を名乗り、仏師という経験を持って仏像と取り組んでいるのがわたしやと思います。そして、出来たみ仏を単なる木の仏像やないかと言います。
ところが逆なんですわ。それがほんまのわたしなんですね。彫っていたのは、単なる職人にすぎない、松久朋琳という職人です。仏性として出てきたみ仏、これがほんまのわたしですのや。
どうしてそういうことが言えるのか。
仏像に現れた自分というものは、すでに自分ではないのです。仏像を彫りまいらすことによって、わたしの心の奥底にある仏性が、仏像という形になって現れたのです。その仏性こそ、お釈迦さんが、「凡ての人に仏性あり」と言われた本当のわたしなんですな。
わたしの顔をわたしが削ってる。そうすると削られている仏さんがわたしなのか、削っているわたしがほんまのわたしなのか、わからんようになってきます。無心に削っているうちに、削っているわたしと、削られているわたしの仏とが融然と一体となってしまう。合一してしまう。これが、仏師の一番の生粋のところやないかと思います。
そういう境地にスウーッと入ってしまう。そうすると、わたしが仏か、仏がわたしかわからんようになってしまいます。そういう状態になってしまいます。これが仏づくりの心やないか、そないにわたしには思えるのです」

タリバンが爆破した巨大石仏も、彼らから見れば、石を削ってつくった、ただの石の建造物にしか見えないでしょう。しかし、仏教徒が見れば、石仏からは、いくら汲んでも尽きる事のないみ仏のいのちの泉がこんこんと湧き出ているのです。

石仏だけではありません。木の仏も、金属の仏も、乾漆の仏も、仏画の仏も、そして、ありとあらゆるものの中におわします仏も、みな光を放っているのです。

タリバンに爆破される前、石仏の顔の部分はすでになく、装飾も剥げ落ちて、往時の姿は偲ぶべくもありませんでしたが、イスラム教徒の手にかからなくても、いずれは諸行無常真理の中にあるものは、みなそうなる定めにあります。

しかし、崩れ去っても、それは目に見える外観に過ぎません。たとえイスラム教徒の手によって顔を破壊され、装飾が剥がされても、目に見えない仏のいのちは永遠に生き続けています。爆破しようが、何をしようが、彼らは、無駄な抵抗をしているに過ぎません。

では、何故タリバンは、無駄な抵抗であるにも拘らず、石仏破壊という行動に出たのでしょうか?

弘法大師様が、『般若心経秘鍵』の中で、「医王の目には途に触れて皆薬なり。解宝の人は砿石を宝と見る。知ると知らざると誰が罪過ぞ」(名医は、道端の雑草でさえ薬として使い、名工はただの鉱石から宝を見出す。雑草とするか薬とするか、鉱石とするか宝石とするか、それを見出す深い智慧の眼を持っているかいないかは、誰の責任であろうか)と説いておられるように、彼らが、巨大石仏を、石で造られた偶像としか見られないのは、ありとあらゆるものの中にまします仏のいのちを汲みとる智慧の眼、悟りの眼を持たないからです。ただ表面的な外見だけに目を奪われて、真相を見ていないだけなのです。

智慧の眼、悟りの眼を持っているか、持っていないか、たったそれだけの違いですが、いみじくもタリバンの石仏破壊は、心の眼、智慧の眼、悟りの眼を持たない人間の悲哀を世界中の人々に知らしめる結果となったのです。

しかも、彼らは、石仏破壊が無駄な抵抗だとは全く知りませんし、気づいてもいません。勿論、それは、智慧の眼、悟りの眼を開いた者だけが知りうる真相であり、仏の自己に直面していない彼らが気付いていないのも無理はありません。

自己を創造した唯一神しか信じられない限り、彼らには、自己の真相に直面する機縁は永遠に巡ってこないでしょう。

このような智慧の眼を持たないために自らの真相に気づかない事を、お大師様は、「衆生秘密」と説いておられます。

真理は常に私たちの眼の前に開かれていますが、それを肉眼で見る事は出来ません。心を研ぎ澄まし、智慧の眼、悟りの眼を磨かなければ、たとえ目の前の真理であっても永遠に見る事は出来ないのです。

見えてこないのは、真理が自らを隠しているからではありません。その人自身が心の眼、智慧の眼を曇らせているから、目の前の真理が見えてこないだけです。

勿論、その真理は私たちの内にもあり、眠っている智慧の眼が目覚めるのを、今や遅しと待っています。

釈尊は、菩提樹の下で、この世の真理を悟り、仏陀と成られました。しかし、真理は、釈尊が悟られる以前から、この世に存在し、開かれていたのです。釈尊は、その真理を発見され、わが内に眠る仏の自己と対面された人類史上最初のお方だったに過ぎません。

菩薩様が詠まれた『道歌集』の中に、
  悟りとは 表の教より裏の法
    見えぬ裏にぞ 悟りあるなり
 という歌がありますが、心の眼、智慧の眼、悟りの眼を磨かなければ、物事の裏に隠された真相は、見ることも聞くことも触れる事も出来ません。

弘法大師様も、『般若心経秘鍵』の中で「顕密は人に在り、声字(しょうじ)は即ち非なり」(顕教と密教の違いは文字ではなく人である)と説いておられますが、同じものを見ても、その真相が見える人と見えない人がいるように、同じ仏像を見て、ただの偶像と見るか、それともその中に輝く仏のいのちを見出せるかは、ひとえに智慧の眼、悟りの眼が開けているか否かにかかっているのです。

タリバンがバーミヤン石仏を偶像だとして破壊した事は大いに非難されるべきですが、所詮この世に存在するものは、何であれ滅びる定めにあり、彼らが破壊しなくても、いずれは崩れ去ったでしょう。

しかし、彼らが破壊したのは、現象界に一時的に存在する仏像に過ぎず、森羅万象に内在する仏ではありません。自己に内在する仏を破壊する事など不可能です。何故なら、内在的仏は、形を持った存在ではないからです。

彼らは、バーミヤン石仏を破壊したから、仏を破壊出来たと喜んでいるのかも知れませんが、真相を観る心の眼、智慧の眼、悟りの眼を持たない彼らは、まだその事に気づいていないだけなのです。