仏教は偶像崇拝か?(3)

衆生秘密─顕密は人に在り
このような智慧の眼を持たないために自らの真相に気づかない事を、お大師様は、「衆生秘密」と説いておられます。
真理は常に私たちの眼の前に開かれていますが、それを肉眼で見る事は出来ません。心を研ぎ澄まし、智慧の眼、悟りの眼を磨かなければ、たとえ目の前の真理であっても永遠に見る事は出来ないのです。
見えてこないのは、真理が自らを隠しているからではありません。その人自身が心の眼、智慧の眼を曇らせているから、目の前の真理が見えてこないだけです。
勿論、その真理は私たちの内にもあり、眠っている智慧の眼が目覚めるのを、今や遅しと待っています。
釈尊は、菩提樹の下で、この世の真理を悟り、仏陀と成られました。しかし、真理は、釈尊が悟られる以前から、この世に存在し、開かれていたのです。釈尊は、その真理を発見され、わが内に眠る仏の自己と対面された人類史上最初のお方だったに過ぎません。
菩薩様が詠まれた『道歌集』の中に、
悟りとは 表の教より裏の法
見えぬ裏にぞ 悟りあるなり
という歌がありますが、心の眼、智慧の眼、悟りの眼を磨かなければ、物事の裏に隠された真相は、見ることも聞くことも触れる事も出来ません。
弘法大師様も、『般若心経秘鍵』の中で「顕密は人にあり、声字(しょうじ)は即ち非なり」(顕教と密教の違いは文字ではなく人である)と説いておられますが、同じものを見ても、その真相が見える人と見えない人がいるように、同じ仏像を見て、ただの偶像と見るか、それともその中に輝く仏のいのちを見出せるかは、ひとえに智慧の眼、悟りの眼が開けているか否かにかかっているのです。
タリバンがバーミヤン石仏を偶像だとして破壊した事は大いに非難されるべきですが、所詮この世に存在するものは、何であれ滅びる定めにあり、彼らが破壊しなくても、いずれは崩れ去ったでしょう。
しかし、彼らが破壊したのは、現象界に一時的に存在する仏像に過ぎず、森羅万象に内在する仏ではありません。自己に内在する仏を破壊する事など不可能です。何故なら、内在的仏は、形を持った存在ではないからです。
彼らは、バーミヤン石仏を破壊したから、仏を破壊出来たと喜んでいるのかも知れませんが、真相を観る心の眼、智慧の眼、悟りの眼を持たない彼らは、まだその事に気づいていないだけなのです。
予定より早く完成した身代り升地蔵尊
仏像を拝む事が決して偶像崇拝ではない事を、実例を挙げてご紹介したいと思います。
昭和58年(1983)年6月29日、法舟菩薩様は、霊夢にて、灼熱の汗を流しながら升の中に凛とたたずむ身代り升地蔵尊を感得されました.が、このお地蔵様こそ、身命を賭して私たちの罪汚れを代って背負う代受苦行に臨んでおられる法舟菩薩様の変化身でした。
菩薩様御入定から十年後の平成12年、知り合いの仏壇屋に、身代り升地蔵尊の制作をお願いしましたが、私の予定では、平成13年のお彼岸の中日(3月21日)を過ぎてからお祀りし、春の大法要が催される4月13日に開眼供養をしようと思っていました。
ところが、お彼岸前の3月6日、仏壇屋から「仏像が完成しましたので、これから持っていってもよろしいでしょうか?」というお電話があったのです。
私は、3月21日の彼岸法要が終わってからお祀りする予定でしたので、「それまで預かっておいてほしい」とお願いしたのですが、「お厨子の中に納まるかどうかも確認したいし、手直しをしなければならない箇所があれば、4月13日までに直さなければいけないので、是非一度お厨子に納めさせて下さい」と言われるので、一度持って来ていただく事にしました。
升の中に凛と佇むお姿を見て、菩薩様が帰ってこられたような感動を覚えましたが、お厨子の中に入られると、更に素晴らしく、いままで拝見してきたどのお地蔵様よりも素晴らしいと感じました。
仏壇屋さんが、「どうしましょう。このまま置いておきましょうか?」と言われるので、「いえ、3月21日に彼岸法要があるから、最初の予定通り、彼岸法要が終わってから、四月十三日の大法要までの間に納めて貰いたいのです」と言って、一旦持ち帰って頂いたのです。
仏師の遊び
ところが、その日の夜十時半過ぎ、思わぬ出来事が起こりました。4歳になる娘がいきなり、「足が痛い!」と言って泣き出したのです。
「どうしたの?」
「右足の付け根と太ももの間ぐらいが痛い。痛みが段々大きくなってくる」
すぐ119番に電話して、救急病院を探してもらったところ、すぐ近くの済生会病院が診てくれるというので、娘を抱きかかえて、病院へ走りました。
「どこが痛いんですか?」
「右足が痛いと言って泣くんです」
「分かりました。一度診てみましょう」
そう言って右足を触って診て下さったのですが、不思議な事に、先生が触っても、もう少しも痛がりません。あれだけ泣き叫んでいたのに…
「痛くない?」
「痛くない」
「一度立ち上がってごらん」
恐る恐るですが、ちゃんと立てるのです。
「歩けるかな?」
「分からない」
と言いながら、恐る恐るですが、一歩二歩と歩けるのです。
「痛くない?」
「痛くない」
病院へ行くまで大声で泣いていたのに、もう全く痛くないとは、どういう事か?
本人は勿論ですが、私も妻も、まるで狐につままれたような気持で、首を傾げる他ありませんでした。
「今診た限りでは、多分大丈夫だと思います。取り敢えず帰って頂いて、また何かあったらすぐに来て下さい」
「分かりました」
そう言って、釈然としない思いを抱きながら帰ってきたのですが、一体何が起こったのか見当もつかず、頭の中は、様々な思いが走馬灯のように駆け巡っていました。
お寺へ帰ってきて、ふと脳裏を過ったのは、その日、仏像を持って来られた仏壇屋さんがおっしゃった言葉でした。

「先生、実はこの仏像に一つだけ、仏師さんの遊びがあるんですが、わかりますか?」
「仏師さんの遊び?」
「はい、このお地蔵様には、仏師さんが、少し細工を施した箇所があるんです。それが仏師さんの遊びと言うんですが、分かりますか?」
「分からないけど、どこですか?」
「右足を見て下さい。右足を少し前に出しておられるでしょう。普通は両足を揃えて直立不動なんですが、これから苦しむ人々を救いに行かれるところを表現するため、右足を少し前に出しておられるんです。これが仏師さんの遊びなんです。」
「なるほど、これが仏師さんの遊びですか」
私は、お地蔵様をお祀りするのは、彼岸法要が終わった3月21日以降でなければいけないと自分で計らいをし、せっかくお厨子の中に入られたお地蔵様を、仏壇屋さんに一旦持って帰って頂いたのですが、子供が、突然、右足が痛いと言って泣きだしたのはその夜だったのです。
仏像に施されていた仏師さんの遊びは、右足ですが、娘が痛いと言っていたのも右足なのです。しかも、痛いと言って泣いていた子供の誕生日は、お地蔵様の御縁日である12月24日の納め地蔵なのです。
これらの条件が揃えば、娘の右足が痛い原因は、一つしかありません。
「あなたは、わざわざお厨子に納められた私を、何故返すのですか?3月21日を過ぎなければ納めてはいけないというのは、あなたの計らいに過ぎません。私は、一刻も早く、お厨子の中に入って、衆生を済度したいのです。一日も早く私を開眼して、供養しなさい」
お厨子に入られたお地蔵様は、きっと私にそう言っておられたに違いありません。しかし、私の心の耳にはその声が聞こえず、お地蔵様のみ心を悟る事が出来ないから、わざわざ娘の右足を使って、気づかせて下さったのです。
まだ4歳にしかならない娘に痛い思いをさせ、またお地蔵様にも御苦労をおかけし、本当に申し訳ないと、心の中でご懺悔しましたが、私は、この時、初めてお地蔵様と心を通わす事が出来たように思いました。
肉眼で見れば、木に彫られたただの仏像に過ぎませんが、このお計らいを通じて、お地蔵様が生きておられる事を実感しました。もしこのお地蔵様が、木に刻んだただの偶像であれば、このような不思議なお計らいが起こる筈がありません。
お地蔵様は、木に彫られたただの偶像ではなく、木の中からお出ましになった生きたみ仏である事を、自ら証明されたのです。
心は巧みなる画師のごとし
お大師様は、『即身成仏義』の中で、「加持とは、み仏の大慈大悲のみ心と、衆生の信心が感応し合う事をいう」(加持といっぱ、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水能く仏日を感ずるを持と名づく)」と説いておられますが、この日の夜、お地蔵様と、私の中の仏が、加持感応し合ったのは、お地蔵様がただの偶像ではなく、生きたみ仏だったからです。
しかし、生きておられるお地蔵様であっても、見る者の心次第では、ただの偶像にもなり得ます。その事を世界中の人々に教えたのが、バーミヤン石仏を破壊したタリバンです。
その意味では、彼らの行動も、無駄ではなかったと言えるのかも知れませんが、いずれにしても、人の心ほど、ありとあらゆるものを作り出せるものは、この世にありません。すべては、心の所産と言っても過言ではないでしょう。
『華厳経』に、「心は巧みなる画師のごとし。種々の五陰を描き、一切の世界の中の法として造らざるなし」と説かれているように、思い思いの絵を自由自在に描き出せるのが、心という名の画家です。
人類に不幸をもたらす絵を描くのも、幸福をもたらす絵を描くのも自由ですが、だからと言って、何を描いてもよい事にはなりません。自由だからこそ、その責任も重大なのです。
私達は、間違っても不幸をもたらす絵を描くような愚かな画家にだけはなってはならないし、他の人々にも、そのような心を作らせてはならないのです。
イスラム教過激派が無差別テロに走るのも、某国が戦争を始めると言って威嚇しているのも、心が描き出した悪夢(妄想)がそうさせているのです。
もし世界を滅ぼすものがあるとすれば、原爆でも生物兵器でも未知の細菌でもなく、最も身近にありながら、最も知られていない心という名の愚かな画家ではないでしょうか。
昔から仏教を内道といい、仏教以外の教えを外道(げどう)と言いますが、唯一絶対神を信仰する一神教徒が、わが内なる神秘の世界、心の秘密に思いを馳せる事はありません。
何故なら、彼らにとって、真理とは唯一絶対神以外にありえず、わが内なる心の秘密など真理とは無関係だと思っているからです。まさに、そこが外道の外道たる所以ですが、仏教徒が、わが内なる神秘の世界、心の秘密を深く掘り下げ、そこにある真理(仏)の扉を開けようとするのとは対照的です。
わが内なる真理(仏)と対面するには、ひたすら心の眼、智慧の眼、悟りの眼を研ぎ澄まし、見えない真理を見極める眼を持たなければなりません。

