法徳寺の節分は何故「福は内、鬼も内」と唱えるのか?

法徳寺の豆まき

二月と言いますと、大きな仏教行事が二つあります。一つは二月三日の節分、もう一つは二月十五日の涅槃会(ねはんえ)です。
ご承知のように、立春、立夏、立秋、立冬という大きな季節の節目の前日を、節分と言います。
ですから、節分は本来、年に四回ありますが、現在は、一年の節目という意味合いで、立春の前日だけを節分と言っています。
季節の変化の節目は、人間の体にとっても大きな節目となるため、昔から私達のご先祖は、一年間の無病息災を祈って、様々な厄除け行事を行ってきました。
その一つが節分の豆まきですが、どのお宅でも、二月三日は恒例の豆まきをされる事でしょう。
昔からの慣わしに従えば、その年の恵方(縁起の良い方角)向かって「福は内」と唱え、次に恵方に背を向けて、「鬼は外」と言いながら豆まきをする事になりますが、「鬼」や「魔」というのは、人間のいのちを脅かす様々な禍や病気、災難の事(外魔)であり、人間の心に巣食う執着や貪り、怒りの心(内魔)でもあります。
「鬼は外」と言う掛け声には、様々な禍や災難を追い払い、「心の中に巣食う執着や貪り、怒りという悪魔を追い出して、福の心(慈悲心)を呼び覚まそう」という祈りが込められているのです。

「鬼も内」とお唱えする理由

しかし、法徳寺では、あえて「福は内、鬼は外」とは唱えず、「福は内、鬼も内」とお唱えしながら豆まきをします。
「鬼に入って来られては困ります」と言われるお方もいるでしょうが、困る事など何もありません。
「福は内、鬼も内」と言って豆をまく理由は、二つあります。
一つは、鬼も苦しむ衆生の一人だという事です。
衆生済度をしなければならない使命のあるお寺にとって、救われなくてもよい衆生など一人もいません。
たとえ鬼であっても悪魔であっても、法徳寺に救いを求めてくる者は、すべて救わなければならない衆生の一人なのです。
鬼だ、悪魔だと言って分け隔てをしていては、衆生済度の使命は果たせません。
それでは、お寺の使命を自ら放棄しているようなもので、本末転倒と言わねばなりません。
むしろ鬼や悪魔ほど救いを求める心が強く、一刻も早く鬼や悪魔を呼ばれる身分から救われたいと願っている筈です。
菩薩さまも常々、「鬼も悪魔も衆生の一人だから、分け隔てなくお寺に招いて、仏法を施し、救ってあげなければいけない」と仰っておられましたが、節分が来るといつも、この言葉が脳裏に蘇ってきます。
お大師様は、
  虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば
    わが願いも 尽きなん
というお誓いを立てておられますが、鬼も餓鬼も悪魔もみな衆生の一人ですから、鬼だけを追い出していては、お大師様の御誓願も成就しないのです。

福と禍は表裏一体である

吉祥天女

二つ目は、福と鬼は別々のものではないという事です。
吉祥天と黒闇天(こくあんてん)の話をご存じでしょうか。
吉祥天は福の神、黒闇天は貧乏神(疫病神)ですが、敵対しているように見えるこの二人は、実は姉妹なのです。
吉祥天が姉、黒闇天が妹で、一心同体ですから、どこへ行くのもいつも一緒です。
こんな面白い話があります。
或る日、美しい女性がやって来られ、「私は吉祥天と言う福の神です。お宅に福を授けにまいりました」と言ったので、家人は大そう喜び、「有り難うございます。どうぞお入り下さい」と言って招き入れました。
すると、その後ろから、みすぼらしい姿をした女性が入って来ようとするので、「あなたはどなたですか?」と尋ねると、「私は黒闇天という貧乏神です」と名乗ったので、「貧乏神に入ってもらっては困ります。どうぞお帰り下さい」と言うと、黒闇天は大笑いしながら、「先ほど入っていった吉祥天は私の姉です。私達はいつも一心同体で、どこへ行くのも一緒なのです。もし私を追い出せば、姉も一緒に出て行かねばなりませんよ」と言って、黒闇天を追い出したら、吉祥天も一緒に出て行かれたというのです。
「吉凶禍福はあざなえる縄の如し」と言う言葉がありますが、吉も凶も禍も福も、すべて表裏一体ですから、福だけを招く事は出来ません。
おめでたい福だけを招きたいと思っても、福の裏にはいつも禍が付いて回っているのです。
福を招きたければ、禍も一緒に招く心にならなければ、本当の福は招けません。

本当の福の神は誰か?

更に深く悟れば、今まで見えなかった新たな世界が見えてきます。
福も鬼も分け隔てなく、すべてを在るがまま受け入れ供養させて頂く心になったら、「本当の福とは何か、本当の福の神は誰か」という事が、少しずつ分ってきます。
そして、今まで知らなかった節分の本当の目的に気付かれるでしょう。
禍(黒闇天)と一心同体の福(吉祥天)が、あなたの求める本当の福ではありません。
禍(黒闇天)と一体の福(吉祥天)は、まだ借りの福に過ぎません。
福と一体の禍(黒闇天)もまた借りの禍に過ぎません。
自分にとって不都合な事も、好都合な事も、禍も福も分け隔てなく、すべてを在るがまま受け入れようという心になった時、本当の吉祥天がそこに現われます。
その吉祥天こそ、実はあなた自身であり、あなたの本当の姿なのです。
その心を成就した時、あなた自身が、人々に福を授ける福の神となるのです。
その意味で言えば、あなたにとって都合の良い吉祥天という福の神も、不都合な黒闇天という貧乏神も、実はあなたを福の神に生まれ変わらせる為の借りの姿と言っていいでしょう。
節分は、あなた自身の中に眠る福の神を目覚めさせるための年に一度の大切な行事であり、一年が始まる立春の前日こそが、福の神に生まれ変わる日(節が分れる日)に相応しいと考えたからこそ、我々のご先祖は、親から子、子から孫へと、節分の行事を伝え、お祝いし、祈りを捧げてきたのです。
菩薩さまが、あえて「法徳寺は、”鬼も内”だ。鬼もお招きしなければいけない」と言われたみ心の裏には、「節分は、福の神に生まれ変わる大切な日である事に気付いて欲しい」という祈りが込められているのです。

合掌