幸不幸を分けるもの

改めて日本人のアイデンティティ(日本人らしさ)とは何かを考えた時、その日本人らしさを最もよく教えてくれているのが、先にお話した「ポツンと一軒家」に住む人々ではないかと思います。
大自然に囲まれ、大自然の恵みと日々の糧に感謝し、足ることを知る暮らしを続ける「ポツンと一軒家」の人々こそ、失ってしまった日本人のアイデンティティをいまも守り伝えてくれている人々なのです。
番組スタッフとの間に、次のような会話が交わされていました。

 「幸せですか」
 「はい、幸せです」
 「不便なことはありませんか」
 「はい、これが、当たり前だから、不便と思ったことはありません」
 「欲しいものはありますか」
 「ありません。はやく畑に出て作物を作りたいです」

船内感染が広がった為、船室に足止めされたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」の乗客の一部の人たちが、対応のまずさや隔離されている事への不平不満の言葉をもらしていたのが、脳裏に蘇ってきます。
裕福とは無縁と思われる「ポツンと一軒家」に住む人たちが感謝の言葉を口にし、優雅な船旅を楽しみ、不平不満とは無縁と思われる人たちから、感謝の言葉が聞こえてこないのは何故でしょうか。
常識的に考えれば、優雅な船旅を楽しんでいる人たちから、感謝の言葉が聞かれ、不便と思われる「ポツンと一軒家」で暮らす人たちから、不平不満の言葉が出てきてもおかしくありませんが、出てきた言葉は全く逆なのです。
何故こんな不思議な事が起こったのかと言えば、当たり前と考える基準が、根本的に違っているからです。
5を当たり前と考えている人にとっては、5が幸せの基準ですが、10を当たり前と考えている人にとって、5は不平不満の種でしかありません。
「ポツンと一軒家」の人たちと、優雅な船旅を楽しむクルーズ船の人たちを見て分かる事は、当たり前と考える基準が高ければ高いほど、その人が感謝の言葉を口にする事は難しくなるという事です。
もし「ポツンと一軒家」に住む人たちが、クルーズ船の船旅を経験すれば、極楽のような暮らしと感じるでしょう。
しかし、クルーズ船の船旅が当たり前と考えている人たちを、「ポツンと一軒家」に連れていけば、こんな所には一日も住みたくないと感じる筈です。
当たり前の基準が違っているのですから、「ポツンと一軒家」の人たちが福の神と感じることを、クルーズ船の人たちが疫病神としか感じられなかったとしても不思議ではありません。
これを見れば、人間の幸不幸を分けるものは、お金でも物でもなく、何を当たり前と考えるかの基準の違いであることがわかります。
今回、新型コロナウイルス感染症によって、大勢の人が不自由と感じている日々の暮らしさえも、「ポツンと一軒家」に住む人たちは、不自由とは感じないでしょう。
何故なら、それが、「ポツンと一軒家」に住む人たちにとっての当たり前の暮らしだからです。
何を当たり前と考えるかによって、人は幸せにもなれば、不幸にもなります。
もし、今の暮らしに、不平不満の心しか起きないのであれば、今の暮らしが自分を不幸にしているのではなく、今の暮らしに不平不満しか持てない自分の当たり前の基準が、自分を不幸にしている事に気付かねばなりません。