いまのぼくにとって

作詞・作曲 大西良空

都会では自殺する 若者が増えているからと
深刻そうな顔をして 誰かがしゃべってた
でもいまのぼくにとって 深刻なのは終電車
いつも見慣れた駅の灯りが 遠く感じられて
ひとりホームにたたずみ テールランプを見送れば
冷たい雨がこころに 凍みてくるのさ

世界には争いや 貧困の中であえぎながら
懸命に生きている人が いるのは知っているけど
でもいまのぼくにとって 悲しいのは待ちぼうけ
イヴの夜にはいつもの店で 遇おうと言ってたのに
華やかなベルの音色が 虚しくこころにこだまして
夜空を舞い散る粉雪も 泣いているのさ 

でもいまのぼくにとって 恨めしいのは今日の雨
野外ライブの会場には 誰も来ていない
ラジオをつければ大きな 笑い声が聞こえている
誰もが他人のことなど 知らずに生きている
みんな自分の知る世界しか 生きられないから

私たちが生きている世界

この世界では、一時間60分、一日24時間、一週間は7日、一年は365日と決まっています。これは、地球のどこへ行っても変わりありません。
しかし、この地球上に、一時間60分、一日24時間と決まっていない所が、一ヶ所だけあるのです。しかも、私たちの最も身近な所に。
皆さんは、好きな人と遇っている時、一日がとても短く感じたり、嫌いな人と遇っている時、数十分が何時間にも感じたりした経験があると思いますが、何故同じ時間が短く感じたり長く感じたりするのかと言えば、もっと好きな人と一緒に居たい、嫌いな人と早く別れたいという思いがそう感じさせているからです。この心の世界は、一時間60分、一日24時間と決まっていません。
私たちは、この一時間60分と決まった目に見える世界と、そうとは決まっていない、目に見えない心の世界に生きているのですが、では実際に私たちが生きているのは、どちらでしょうか?
恐らく大部分の人は、「一時間60分の世界に決まっている」と答えるでしょうが、確かに肉眼で見える世界の常識では、一時間60分の世界に生きているように見えます。
しかし、実際は、一時間が短く感じたり長く感じたりする心の世界に生きているのが、私たちなのです。

心は巧みな画師のごとし

『華厳経』というお経には、「心は巧みな画師のごとし。種々の五陰を描き、一切の世界の中の法として造らざるはなし」と説かれています。
つまり、あたかも名画家が自由自在に絵を描くように、心という絵筆を使って、自分が生きるありとあらゆる世界を描き出し、苦楽幸不幸の人生を生きているのが、今の私たちです。
自分が生きる世界を心で作り出しているとは、どういう事かと言えば、もし私たちの生きる世界が、一時間60分と決まった世界だけだったとしたら、人間の幸不幸は最初から決まっている事になります。
例えば、病弱で貧しい人生と、健康で裕福な人生のどちらがいいかと言えば、百人が百人とも後者の人生と答える筈です。何故なら、後者の人生の方が幸せだと誰もが思うからです。
ところが、現実はどうでしょうか。世の中を見ると、必ずしもそうとは決まっていない事が分かります。
いくらお金に不自由のない生活を送っていても不幸な人は大勢いますし、健康に恵まれながら、毎日不平不満を抱き、愚痴ばかりこぼしている人もいます。
そうかと思えば、家族が肩を寄せ合ってつつましく暮らしているのに、毎日笑いの絶えない家もあれば、闘病生活をしているのに、感謝の心を忘れず毎日心豊かに暮らしている人もいます。
何故こんな不思議な事が起こるのでしょうか?
それは、心という一時間60分とは決まっていない心の世界があるからです。
お金や健康に恵まれた人が必ずしも幸せになるとは限らず、そうでない人が必ず不幸になると決まっていないのは、心の世界をあるからであり、人間の幸不幸が、心の持ち方一つで決まるようになっているからです。

知っている世界の中でしか生きられない

私たちが、心の世界で生きているという事は、言い換えれば、自分が心で描き出した世界の中でしか生きられない事を意味します。
つまり、私たちにとって生きるとは、自分が知っている世界を生きる事であり、自分が知らない世界は、生きる上では存在しないのと同なのです。
世界には、自分が知らない国々や、一度も耳にした事のない都市がたくさんあります。この狭い日本の中でさえ、生まれて一度も聞いたことのない町や村がたくさんあります。
これらの町や村は、間違いなくこの地球上に存在していますが、それらの町や村を知らないという事は、私たちが生きていく上で存在していないのと同じです。
いま地球上には、69億人の人がいると推定されていますが、この中で、自分が生涯に出会う人は微々たる数に過ぎません。
69億の人々がいても、大部分はまったく知らない人々であり、自分の人生においては、存在していない人々なのです。
広い世界の中で生きているように見えても、実際は、自分が知っている範囲内の人々や世界の中で生きているに過ぎません。
私たちが生きている世界は、想像以上に小さいのです。

「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉がありますが、所詮私たちが生きている世界は、「井の中の蛙」の世界に過ぎません。
しかも、小さな井の中の世界で出会うわずかな人々のことさえ知らずに生きているのです。
他人が何を思い、何を悩み、何に苦しんでいるのか、何も知らず、自分の事だけ考えて生きているのですが、よくよく考えてみれば、人間に生まれて、自分が生きている世界の事も、生涯出会うであろう人々の事も知らずに死んでいかねばならないとしたら、こんな悲しい人生はありません。
人間に生まれて、自分の喜びや思いや悩み苦しみを誰にも打ち明けられず、打ち明ける人もいないとしたら、これほど寂しい人生はありません。
世の中を見れば、多くの人々が悩み、苦しみ、あえぎながら、生きていますが、私たちは、ただ悩み苦しむ為だけに生まれてきた訳ではない筈です。私たちにはみな、もっと豊かで、有意義な人生が用意されている筈です。
心の扉を大きく開き、ちっぽけな井の中の世界から、どこまでも広がる広大無辺なる大海原に飛び出せば、今まで知らなかった世界が目の前に広がり、知らなかった人々の声が聞こえてくるかも知れません。