しあわせさがし~二十歳の君へ・高野悦子を偲んで(2)

作詞・作曲 大西良空

みんな夢を胸にいだき 燃えていたけど
ただ前を向き がむしゃらに走ってただけ
何もかもが過ぎ去り行く 過去の思い出
時だけが むなしく流れて
足下に咲いてる 可憐な花も
白樺のこずえで さえずる鳥も
しあわせという名の いのちの唄を
いつも歌って くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
忘れられない あの日から 始まっていた
終りのない 果てしのない しあわせさがし
旅はいつまでも つづくのさ

いつも君と待ち合わせた コーヒーショップ
奥の決まった席で 笑っていた君が
今も記憶の片隅に よみがえるのさ
淡い思い 胸にあふれて
黒髪をなびかせ 駆けよる君も
恥じらいうつむいて 見つめる君も
しあわせという名の いのちの時を
いつも刻んで くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
君と別れた あの日から 始まっていた
君のいない 一人きりの しあわせさがし
旅はこれからも つづくのさ

窓辺に降りしきる 時雨の音も
川面を吹きぬける 風のそよぎも
しあわせという名の いのちを讃え
いつも奏でて くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
遠く離れた あの日から 始まっていた
終りのない 果てしのない しあわせさがし
旅はいつまでも つづくのさ

二人して歩いた 三年坂も
二人して眺めた 送り火の灯も
しあわせという名の いのちの糸で
いつも結んで くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
涙ながした あの日から 始まっていた
君のいない 一人きりの しあわせさがし
旅はこれからも つづくのさ
君のいない 一人きりの しあわせさがし
旅はいつまでも つづくのさ

自殺の動機と背景

彼女が自殺するに至った動機や背景については、高校時代に奥浩平の『青春の墓標』を読み、”心の友”と呼ぶほど強い影響を受けていた事や、全共闘運動で挫折した事、失恋した事など、幾つかの要因が挙げられていますが、それらの根底にあったものは、一体何だったのか。

思うに、彼女自身が、「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」と書いているように、二十歳になった彼女が、名実共に大人に脱皮するために、どうしても乗り越えなければならないと自らに課した二つの命題(孤独と未熟さからの脱却)が、彼女の肩に重くのしかかっていたのではないでしょうか。
その事が象徴的につづられているのが、昭和44年(1969)1月2日の二十歳の誕生日に書かれた次の文面です。

今日は私の誕生日である。二十歳になった。酒も煙草も公然とのむことができるし、悪いことをすれば新聞に「A子さん」とではなく、「高野悦子 二十歳」と書かれる。こんな幼稚なままで「大人」にさせてしまった社会をうらむなあ。未熟であること、孤独であることの認識はまだまだ浅い。
未熟であること。人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつでも背負っている。人間の存在価値は完全であることにあるのではなく、不完全でありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。人間は未熟なのである。個々の人間がもつ不完全さはいろいろあるにしても、人間がその不完全さを克服しようとする時点では、それぞれの人間は同じ価値をもつ。そこに生命の発露があるのだ。
人間は誰でも、独りで生きなければならないと同時に、みんなと生きなければならない。
私は「みんなと生きる」ということが良くわからない。みんな何を考えているのかを考えながら人と接しよう。

彼女は、社会から大人として扱われる二十歳の誕生日を境に、孤独と未熟さの克服と言う二つの命題を自らに課し、大人へ脱皮するための困難な荒海に船出しようと、勇気を奮いたたせていたのではないでしょうか。
そして、この二つの命題を克服するため、彼女が身を投じて闘いを挑んだのが、まさに全共闘運動であり、恋愛だったのですが、やがて、この挑戦は挫折してゆく事になります。
人間としての主体性を確立し、未熟さを克服して、真の大人に脱皮するため、彼女は全共闘運動に参加していきますが、運動に失望する中で自らの未熟さを思い知らされ、主体性を確立できない自分への苛立ちと自虐性を、一層強めていきます。

訪米阻止!のシュプレヒコールを私が叫んだとて、それに何ができるのか。厳として機動隊の壁はあつい。私自身のうけるもの。あせり、いらだち、虚無感(デモの最中の)、ますます広がる混沌さ。(5月30日)
6.15 立命全共闘カンパニア闘争(?)で得たもの──立命全共闘の停滞。集会の混乱。セクトの引き回しとしか感じられぬ全共闘運動。べ平連など市民運動の多様性に対する共感及び学生運動の到達している質的な高さ──それらと、その運動に「参加」という形で加わっている私との違和感。1時から6.15闘争報告集会がある。私はいかない。なぜ?すべてに失望しているから。アッハハハハハ。(6月16日)

また、友人や家族や恋人とのつながりの中で孤独からの脱却を図ろうとしますが、友人との意見の相違や家族や恋人との決別によって、さらに孤独感を深めていきます。

きのう東京にて。姉と話す。父母と話す。決裂して飛び出す。8:00PM京都につく。非常に疲れている。次第に自分に自信をなくしている。(5月31日)
中村にテレをしたがいなかった。……毎日テレしてもいないということ。どこか出歩いているということ。テレを一回もかけてこないということ。誰が考えてもハッキリしている。彼は会いたくないのだ。一抹の期待も抱いてはならないのだ。きっぱり訣別しよう。中村の好きなシャンソンの一曲「アデュー」を暗い部屋に向って歌った。私はあの若人のもつ明るい笑い声をとうとう失ってしまった。そして、再び「結局は独りであるという最後の帰着点」に私はいる。(6月3日)

そして、彼女の心は、生きることへの意欲と、生きることの苦しみとの狭間で、揺れ動くようになります。

生きることは苦しい。ほんの一瞬でも立ちどまり、自らの思考を怠惰の中へおしやれば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる。思考を停止させぬこと。つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない。私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休憩をのぞめば、それは退歩となる。怒りと憎しみをぶつけて抗議の自殺をしようということほど没主体的な思いあがりはない。自殺は敗北であるという一片の言葉で語られるだけのものになる。(6月1日)
弱い人間。女なんかに生まれなければよかったと悔む。私が生物学的に女であることは確かなのだが、化粧もせず、身なりもかまわず、言葉使いもあらいということで一般の女のイメージからかけ離れているがゆえに、他者は私を女とは見ない。私自身女なのかしらと自分でいぶかしがる。また、前のように髪を肩のへんまで伸ばし、洋服も靴もパリッとかため、化粧に身をついやせば私は女になるかもしれない。しかし、何に対してそうするのか。中村さんも私がそのようにすれば少しは注目するだろうか。女は身ぎれいにしていないと、社会から端的にその人格を否定される。あ──あ。そんな社会はこっちからお断りする。ただ、それだけのことさ。(6月7日)

結局、未熟さの克服も、孤独からの脱却もできぬまま、彼女は次第に絶望感を深め、ついには、自分の生存そのものへの懐疑を抱き始めるのです。

わだつみ像(立命大・広小路キャンパス)

「人間は何故こんなにしてまで生きているのだろうか。そのちっぽけさに触れることを恐れながら、それを遠まきにして楽しさを装って生きている。ちっぽけさに気付かず、弱さに気付かず、人生は楽しいものだといっている。(6月17日)

これらの文面を読むと、こんな未熟な自分がなぜこの世に存在しているのか、なぜ存在しなければいけないのかという、「自己の生存」そのものに対する疑念が、彼女の内面に広がっていったのがよく分かります。
そして、恋人との別れが決定的となり、彼女はますます孤独感を深めていくのです。

みごとに失恋──?アッハッハッハッ。君。失恋とは恋を失うと書くのだぜ。失うべき恋を君は、そのなんとかいう奴とのあいだにもっていたとでもいうのか。共有するものがなんにもないのに恋だって?全くこっけいさ。……そうさ。君にいま残っているものは憎しみさ。こっけいだねえ。(6月18日)
ちっぽけな、つまらない人間が、たった独りでいる。(6月18日)

そこから聞こえてくるのは、生きることの意味も、しあわせの意味も分からなくなってしまった彼女の悲痛な叫びですが、2月1日には、自殺について、次のように書いています。

私は二、三日前からおかしな考えに取りつかれている。カミソリで指を切り血を流そうという考えである。私は、カミソリをもちそれを一気に引くときの恐怖を考えるとゾッとする。体中の力が抜けてワナワナとなる。お前は自分を傷つける勇気がないのかと励ますがダメである
今日、カミソリを買ってきた。スッパリと切り赤い血をタラタラと流し真白なほう帯をしようと考えた途端、ヘナヘナと力がぬけてしまった。おそるおそるやっていたら、チクリと痛みが走った。あわてて手を離したのだが、それでも血が出てきた。真っ赤な動脈血であった。

そして、自殺する二日前の6月22日には、死んだ時の事をこう記しています。

私が死ぬとしたら、ほんの一寸した偶然によって全くこのままの状態(ノートもアジビラも)で死ぬか、ノート類および権力に利用されるおそれのある一切のものを焼きすて、遺書は残さずに死んでいくかのどちらかであろう。(6月22日)

またこうも記しています。

今や何ものも信じない。己れ自身もだ。この気持ちは、何ということはない。空っぽの満足の空間とでも、何とでも名付けてよい、そのものなのだ。ものなのかどうかもわからぬ。(6月22日)