しあわせさがし~二十歳の君へ・高野悦子を偲んで(1)

作詞・作曲 大西良空

みんな夢を胸にいだき 燃えていたけど
ただ前を向き がむしゃらに走ってただけ
何もかもが過ぎ去り行く 過去の思い出
時だけが むなしく流れて
足下に咲いてる 可憐な花も
白樺のこずえで さえずる鳥も
しあわせという名の いのちの唄を
いつも歌って くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
忘れられない あの日から 始まっていた
終りのない 果てしのない しあわせさがし
旅はいつまでも つづくのさ

いつも君と待ち合わせた コーヒーショップ
奥の決まった席で 笑っていた君が
今も記憶の片隅に よみがえるのさ
淡い思い 胸にあふれて
黒髪をなびかせ 駆けよる君も
恥じらいうつむいて 見つめる君も
しあわせという名の いのちの時を
いつも刻んで くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
君と別れた あの日から 始まっていた
君のいない 一人きりの しあわせさがし
旅はこれからも つづくのさ

窓辺に降りしきる 時雨の音も
川面を吹きぬける 風のそよぎも
しあわせという名の いのちを讃え
いつも奏でて くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
遠く離れた あの日から 始まっていた
終りのない 果てしのない しあわせさがし
旅はいつまでも つづくのさ

二人して歩いた 三年坂も
二人して眺めた 送り火の灯も
しあわせという名の いのちの糸で
いつも結んで くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
涙ながした あの日から 始まっていた
君のいない 一人きりの しあわせさがし
旅はこれからも つづくのさ
君のいない 一人きりの しあわせさがし
旅はいつまでも つづくのさ

高野悦子の自殺と全共闘運動

高野悦子

昭和44年(1969)6月24日未明、一人の女子大生が、山陰本線の天神踏切付近で貨物列車に飛び込み、自殺しました。
彼女の名前は、高野悦子(たかのえつこ)。立命館大学の三回生。こう言っても、若い人にはピンと来ないかも知れませんが、『二十歳の原点』の著者と言えば、聞いた事がある人もいるでしょう。
高野悦子は、昭和24年(1949)1月2日、父三郎、母アイの次女として栃木県西那須野町(現在の那須塩原市)で生まれました。昭和39年(1964)4月、第一志望だった栃木県立宇都宮女子高校に入学し、高2の時、修学旅行で訪れた京都の佇まいに触れ、憧れをいだくようになります。
高3になり、立命館大学を志望するようになりますが、その動機について、『二十歳の原点ノート』に、次のように書いています。

「早稲田の反骨精神もさることながら、立命館の立命館史学、それに京都という場所、また早稲田に似た反骨精神を知り、立命館に行きたくなった」「消極的な意味にしろ、日本史に対しての興味を持っているのだから、それをのばして行こう。そしてやっぱり立命館大学へ行こう。京都は七九四年、桓武天皇が都を奈良から京都へ移して以来明治まで、日本の中心として栄えた歴史のある町だ。街が出きて以来、七、八十年ほどしか経っていない西那須野町にしか住んだことのない私には、歴史(の深さ)に実感を感じたことがない。立命館に入って歴史について考えてみよう」

高校時代から、立命大の反骨精神と、奈良本教授の立命館史学に惹かれていた事が分かりますが、その後、第一志望だった立命館大学に合格し、昭和42年(1967)4月、晴れて立命館大学文学部史学科に入学します。しかし、やがて、彼女の運命を大きく左右する全共闘運動の嵐に巻き込まれてゆく事になります。
全共闘とは、「全学共闘会議」の略で、1948年に結成された全学連(全日本学生自治総連合)が民青系(日共系)、中核派系、革マル派系などの各派に分裂して衰退化する中、大学のマスプロ教育の進行や学生管理の強化、学費の慢性的値上げなどに不満を持つ無党派(ノンポリ)の一般学生や政治活動に比較的関心の少ない学生が結集して作られた大学内の連合組織で、当時大学生であった多くの団塊世代が、運動に参加していきました。
そして、昭和43年(1968)の日大紛争と東大紛争をピークに、全共闘運動は全国の大学に広がっていきましたが、立命館も例外ではありませんでした。

現在の立命館大学のキャンパスは、京都市右京区の「衣笠キャンパス」、大阪府茨木市の「大阪いばらきキャンパス」、滋賀県草津市の「びわこ・くさつキャンパス」に分かれていますが、1968年当時は、衣笠キャンパスにあった理工学部、経済学部、経営学部を除く三学部(法学部、文学部、産業社会学部)は、京都御所東側の広小路キャンパスにあり、順次、衣笠キャンパスへの移転が進められているところでした。
大学発祥の地を離れ、新天地へ移ろうとしている過度期に、全共闘運動の嵐が立命館にも波及してきた訳ですが、立命館の全共闘運動は、大学当局の運営に対する学生の不満というより、大学の運営を巡る日本共産党系の学生(代々木系)と、共産党の路線に反対する左派の学生(反代々木系)による主導権争いでした。
当時の立命館大学は、日本共産党の実質的な青年組織とも言える民青(日本民主青年同盟)が主導する「日共王国」でしたが、そんな中で唯一、民青に染まっていなかったのが、学園新聞を発行する「立命館大学新聞社」でした。

日本共産党に対し批判的な新聞社は、民青の学生にとっては、目の上のたんこぶ的存在でしたが、問題の発端は、昭和43年(1968)年12月12日、民青所属の学生10名ほどが、立命館大学新聞社に入社申し込みにやってきた事でした。
このような募集は春に行われるのが通例ですが、この季節外れの入社申し込みの目的は、日共に批判的だった新聞社の乗っ取りであった事は言うまでもなく、入社させろ、させないの押し問答の末、窓ガラスを割って進入してきた民青系の黒ヘルメットの一団によって、新聞社員が15時間にわたり監禁される所謂「新聞社事件」が起こったのです。
しかし、この日共系学生による強行突破が裏目に出て、いままで民青による主導を快く思っていなかった一般学生を立ち上がらせる結果となり、ヘルメットを被り、ゲバ棒を手にし、完全武装した数百名の一般学生(ノンセクト・ラディカル)が、民青側の学生に乗っ取られた新聞社の入る校舎を取り囲み、それが全学にまで及ぶ大騒動に発展していったのです。
更に、この新聞社事件に対する大学当局の対応が曖昧だったため、学生の怒りは頂点に達し、昭和44年(1969)1月16日の東大安田講堂の占拠に続く形で、立命大でも無党派学生を主体とする全共闘学生が大学本部の中川会館をバリケード封鎖するに至り、やがて機動隊と衝突する事になるのです。
更に5月20日には、戦後民主主義運動の象徴ともいうべき「わだつみ像」が一部の全共闘学生によって破壊されてしまいますが、高野悦子が立命館大学に入学したのは、まさに全共闘運動の嵐が吹き荒れようとする前年の昭和42年(1967)4月でした。
二年後の昭和44年(1969)6月24日、彼女は鉄道自殺しますが、彼女の死後、下宿先で、十数冊の大学ノートに書かれた日記が発見されました。
そこには、20歳の誕生日である昭和44年(1969)1月2日(大学二回生)から、自殺二日前の6月22日(大学三回生)までの半年間に及ぶ彼女の内面が赤裸々につづられていましたが、彼女の父親、高野三郎氏が、この日記を同人誌「那須文学」に掲載して大反響を呼び、昭和46年(1971)には、新潮社から『二十歳の原点』と題して発行され、瞬く間にベストセラーとなりました。
その三年後の昭和49年には、昭和41年(1966)11月23日(高校3年)から昭和43年(1968)12月31日(大学2年)までをつづった日記が、『二十歳の原点序章』として、更にその二年後の昭和51年(1976)には、昭和38年(1963)1月1日(中学2年)から昭和41年(1966)11月22日(高校3年)までをつづった日記が、『二十歳の原点ノート』として出版され、あわせて350万部ものベストセラーとなりますが、その頃には、彼女の青春時代そのものとも言うべき全共闘運動は、過去の出来事となっていました。