しあわせさがし~二十歳の君へ・高野悦子を偲んで(4)

作詞・作曲 大西良空

みんな夢を胸にいだき 燃えていたけど
ただ前を向き がむしゃらに走ってただけ
何もかもが過ぎ去り行く 過去の思い出
時だけが むなしく流れて
足下に咲いてる 可憐な花も
白樺のこずえで さえずる鳥も
しあわせという名の いのちの唄を
いつも歌って くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
忘れられない あの日から 始まっていた
終りのない 果てしのない しあわせさがし
旅はいつまでも つづくのさ

いつも君と待ち合わせた コーヒーショップ
奥の決まった席で 笑っていた君が
今も記憶の片隅に よみがえるのさ
淡い思い 胸にあふれて
黒髪をなびかせ 駆けよる君も
恥じらいうつむいて 見つめる君も
しあわせという名の いのちの時を
いつも刻んで くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
君と別れた あの日から 始まっていた
君のいない 一人きりの しあわせさがし
旅はこれからも つづくのさ

窓辺に降りしきる 時雨の音も
川面を吹きぬける 風のそよぎも
しあわせという名の いのちを讃え
いつも奏でて くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
遠く離れた あの日から 始まっていた
終りのない 果てしのない しあわせさがし
旅はいつまでも つづくのさ

二人して歩いた 三年坂も
二人して眺めた 送り火の灯も
しあわせという名の いのちの糸で
いつも結んで くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
涙ながした あの日から 始まっていた
君のいない 一人きりの しあわせさがし
旅はこれからも つづくのさ
君のいない 一人きりの しあわせさがし
旅はいつまでも つづくのさ

歴史のうねりに翻弄される若者の姿

出陣学徒壮行会の模様

60年安保デモによって22歳の若さで亡くなった樺(かんば)美智子。彼女の死に触発されて高校生ながらデモに参加し、後に自らも活動家となって、21歳の若さで自殺した奥浩平。そして、彼の残した『青春の墓標』に強い影響を受け、やがて自らも学生運動に身を投じて鉄道自殺した20歳の高野悦子。
この三人の生き様を見ていると、学徒動員によって戦地に赴き、散っていった若き学生達の事が思いだされます。
勿論、その頃、私はまだ生まれていませんし、その時代の空気も知りませんが、戦後生まれの「戦争を知らない子供たち」の一人である私には、戦中の学徒動員と、戦後の学生運動という、相反するかのように見える彼らの行動の底に、共通する一つの思いが流れているような気がしてならないのです。
それは、国を思い、国の将来を憂い、「わが同胞よ安かれ」と祈る若者の真摯で純粋な思いです。
その思い(願い)が、戦中は学徒動員という形で、戦後は学生運動という形で出てきたのは、時代状況が大きく違っていたからですが、問題は、「それが彼らの意思だけでそうなったのか」という事です。
学生の本分が、学問研究にある事は言うまでもありませんが、学生が持つべきペンを、戦中の学生は銃に、戦後の学生はヘルメットとゲバ棒に持ち替え、空しい闘いに挑んでいかざるを得なかったのは何故か。
それは、彼らの意思でも望みでもなく、一人の人間の力ではどうする事もできない巨大な歴史のうねりの中に巻き込まれていかざるをえなかった結果ではないでしょうか。
出征したある学生が、「これから人殺しをしなければならないと思うと、残念でした。いま俺は、そういう時間と空間の流れの中にいるんだ。 俺はいやだというわけには行かない。一つの諦めでした」と語っているように、ひとたび巨大な歯車が動きだせば、時間は怒涛のごとく流れ出し、もはやいかなる力を以てしてもくい止める事はできず、否が応でも、そのうねりの中に引きずり込まれていかざるを得ないのです。
それが、先の戦争であり、形を変えた戦後の学生運動という闘いなのではないでしょうか。
戦中の学徒動員や戦後の学生運動を見れば、そこには形こそ違え、国を思い、国の将来を憂いながらも、決して逆らうことの出来ない巨大な時代のうねりに翻弄されていかざるを得なかった当時の若者の悲しい姿があります。高野悦子も、そんな学生の一人だったのではないでしょうか。
入学当初、彼女は立命館史学にあこがれ、希望を抱いていました。しかし、やがて、自分の意思とは関係のないところで動き出した安保闘争や学生運動の流れの中に、否応なく巻き込まれていったのですが、その時の彼女の心の動きが、日記には克明に記されています。

ヘルメットの学生がマイクを口にあててアジテーションをしている。彼らには歴史がある。彼らは、現実そのものに歴史がある。私は私の歴史をもっていない。ノンセクトから無関心派への完全なる移行、激しい渦の前でとまどいを感じる。動け?(1月17日)
民青を支持したとしても、反民を支持したとしても、どっちにしろ批判と非難はうける。絶対に正しく、絶対に誤っているということはないのだ。どっちかを支持しなくては行動できないのかもしれないが。(1月23日)
「君は代々木系か反代々木系か」という問いを、不信な敵意に満ちたまなざしで投げかけられる。しかも一年間、同じ机で学んだクラスの友達からその眼ざしを受けると私は寂しく悲しくなる。真剣に不信も無力感も感じてはいるが、何の態度も表明できずにいる無力な私。どっちもどっちだと考えることで辛うじて己れの立場を守っている私。ああ──!そんなセンチメンタリズムは捨て去ってしまえ!強くなるのだ!強くなれ!「もうこうなっては傍観者ではいられない」この言葉をまた今あらためて言わざるを得ない。そういえばいつもそう言って来たっけ。でも今度こそ!傍観は許されない。何かを行動することだ。その何かとはなんなのだろう。(2月1日)

彼女が残した平和へのメッセージ

わだつみ像(立命大国際平和ミュージアムHPから引用)

こうして彼女は、行動しなければいけないと、何度も自らに言い聞かせながら、学生運動という大きな流れの中に呑み込まれていったのですが、それは、彼女の意思というよりも、彼女を取り巻く時代の空気であり、その空気の中では、行動する以外の選択肢はないと思いつめたのかも知れません。
最初の内は、彼女なりの抵抗も試みますが、やがてその空気は彼女の体内を覆いつくし、彼女の意思をがんじがらめにしばってゆきます。
彼女を自殺に追いやったものが何かは、神ならぬ身に分かる筈もありませんが、少なくとも学生運動という1970年代の大きな時代のうねりが、彼女を翻弄した事だけは否定できないでしょう。
勿論、私のように、どちらにも属さなかったノンポリ(無党派)の学生が大勢いた事も事実であり、全共闘運動が全国の大学に拡大していったとは言え、戦中の学徒動員のように、すべての学生を巻き込むほどの巨大なうねりになりえなかった事も事実です。
しかし、巨大なうねりも、最初はたった一滴の波紋から始まるのです。最初はいくら小さくても、次第に大きなうねりとなり、ついには誰も止める事のできないほどの大きさに膨れ上がるのが、時代のうねりというものではないでしょうか。
東日本大震災で、三陸沿岸から関東沿岸の広い範囲にわたって押し寄せた巨大津波をみれば分かるように、時代のうねりも、放置すれば、必ず私達に災いをもたらします。その証が、過去に何度も繰り返されてきた戦争です。
いまわが国を取り巻く世界情勢が、日々緊迫化しつつあることは、もはや周知の事実です。尖閣諸島、竹島、北方四島などの領土問題をはじめ、深刻化する温暖化問題、無差別テロによる大量殺戮と貧困飢餓問題、そしていじめ問題や自殺問題等々、国内外に山積する難問は増加の一途を辿り、負のうねりが、少しずつですが、その大きさを増して迫りつつあるのは、誰の目にも明らかです。
将来、この負のうねりが、どのような形で私達や子々孫々に災禍をもたらすかは、誰にも分かりませんが、いかに小さなうねりであろうと、それを放置すれば、必ず禍根を残す結果を招くでしょう。
だからこそ、禍根の種は、小さい内から、摘み取っておかねばならないのです。
そして、それができるのは、私たち一人一人の平和を願う心であり、絶え間ない努力しかありません。
1969年、一部の立命館全共闘学生の手によって破壊された、戦没学生記念像「わだつみ像」の台座には、末川博立命館大学総長の手になる碑文が刻まれています。

未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある。その貴い未来と生命を、聖戦という美名のもとに奪い去られた青年學徒のなげきと、怒りと、もだえを象徴するのがこの像である。
なげけるか いかれるか はたもだせるか きけ はてしなきわだつみのこえ

ひとたびは破壊されたものの、「わだつみ像」は、1976年に再建され、平和を願って散っていった戦没学徒の声なき声を、いまも発信し続けています。
「平和の大切さ 」──言いふるされた言葉ですが、戦争の悲惨さを伝える体験者が減少の一途を辿り、戦争体験の風化が叫ばれている昨今だからこそ、高野悦子の自殺の意味が、改めて問い直されてもいいのではないかと思います。