しあわせさがし~二十歳の君へ・高野悦子を偲んで(5)

作詞・作曲 大西良空

みんな夢を胸にいだき 燃えていたけど
ただ前を向き がむしゃらに走ってただけ
何もかもが過ぎ去り行く 過去の思い出
時だけが むなしく流れて
足下に咲いてる 可憐な花も
白樺のこずえで さえずる鳥も
しあわせという名の いのちの唄を
いつも歌って くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
忘れられない あの日から 始まっていた
終りのない 果てしのない しあわせさがし
旅はいつまでも つづくのさ

いつも君と待ち合わせた コーヒーショップ
奥の決まった席で 笑っていた君が
今も記憶の片隅に よみがえるのさ
淡い思い 胸にあふれて
黒髪をなびかせ 駆けよる君も
恥じらいうつむいて 見つめる君も
しあわせという名の いのちの時を
いつも刻んで くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
君と別れた あの日から 始まっていた
君のいない 一人きりの しあわせさがし
旅はこれからも つづくのさ

窓辺に降りしきる 時雨の音も
川面を吹きぬける 風のそよぎも
しあわせという名の いのちを讃え
いつも奏でて くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
遠く離れた あの日から 始まっていた
終りのない 果てしのない しあわせさがし
旅はいつまでも つづくのさ

二人して歩いた 三年坂も
二人して眺めた 送り火の灯も
しあわせという名の いのちの糸で
いつも結んで くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
涙ながした あの日から 始まっていた
君のいない 一人きりの しあわせさがし
旅はこれからも つづくのさ
君のいない 一人きりの しあわせさがし
旅はいつまでも つづくのさ

「わだつみ平和文庫」について

平成24年(2012)1月22日、太平洋戦争で戦死した学生たちの手記を集めた遺稿集「きけわだつみのこえ」の編集に携わり、20年以上にわたって日本戦没学生記念会(わだつみ会)の理事長を務められた甲州市塩山在住の元医師、中村克郎さんが、山梨県甲州市の病院で亡くなられました。86歳でした。
中村さんが遺稿集「きけわだつみのこえ」をまとめるきっかけとなったのは、東大在学中に学徒兵として出征し、太平洋戦争中にフィリピン、レイテ島で戦死した兄の中村徳郎さんから生前に託された一冊のノート「戦没学生の手記」でした。
徳郎さんとの最後の面会で、勉学への熱い思いと戦争の終結、平和への希求の思いをつづったノートを託された克郎さんは、このノートをもとに、戦没学生70人以上の手記を集めた「きけわだつみのこえ」を編集・刊行されました。
昭和24年(1949)に刊行された初版は、たちまち大きな反響を呼び、映画化もされましたが、刊行を機に、日本戦没学生記念会(通称、わだつみ会)を設立され、理事長として、各地で講演活動を行うなど平和の大切さを訴え続けてこられました。
平成20年には、地元の甲州市塩山に、克郎さんの娘さんの手によって、克郎さんが長年にわたって収集してこられた戦争や平和に関する資料や蔵書など約3万3千点を展示する「わだつみ平和文庫」(中村徳郎・克郎記念館)が開設されました。
10万点に及ぶ資料や蔵書の数々は、これらを収蔵し、一堂に展示、閲覧出来る施設がないため、眠ったままの状態にあり、地元の山梨県でも、新たに完成した県立図書館での収蔵が検討されましたが、15万冊しか収蔵出来ないという物理的な制約上、断念せざるを得ませんでした。
更にその後、施設の延べ床面積が一定の規模を超え、不特定多数の人が利用する展示施設にするためには、消防法で定める防火設備やバリアフリー対応などが必要である事がわかり、「わだつみ平和文庫」を継続する事が難しくなりましたが、一部の資料は、現在、立命館大学国際平和ミュージアムに常設展示されており、また甲州市中央公民館でも常設展示される事になりました。
今後も紆余曲折が予想されますが、いつの日か、これらの貴重な資料が一堂に展示され、平和の大切さを訴える発信源となる日が来る事を祈らずにはいられません。