今年も一年ありがとう(1)

記録的な大雪

境内に降り積もった雪

9年前の平成26年(2014)2月14日から15日未明にかけて、関東甲信地方は記録的な大雪に見舞われ、甲府市内では、114㎝という、甲府地方気象台が明治27年から観測を始めて以来最大の積雪を記録しました。
中央自動車道や国道20号線(甲州街道)では、数百台の車が大雪に埋もれて立ち往生し、物流が完全にストップするなど、日常生活にも大きな影響が出ました。
また果物王国の山梨県では、農業用ハウスの多くが雪の重みで倒壊し、特にぶどう農家の被害が深刻で、その被害額は、雪が原因の農業被害額としては異例の171億円に上りました。
法徳寺でも、153㎝ある境内の歌碑が雪の中にすっぽり埋もれ、160㎝近い積雪を記録しました。
境内のみならず、表通りに出るまでの市道も雪に埋もれた為、完全に孤立状態となり、漸く表通りに出られるようになったのは、5日後の2月20日でした。
19日の午後から、市の依頼を受けた業者の方が来て、少しずつ大型機械を使って除雪して下さいましたが、薄暗くなってもまだ除雪が終わらず、音も静かになったので、途中で一旦諦めて帰ったのだろうと思っていました。
ところが、翌20日の朝、ポストに朝刊が入っていたので、境内に出てみると、表通りに出るまでの市道の雪が綺麗に除雪されており、6日ぶりに表通りまでの道が通れるようになっていました。
一刻も早く出入りできるようにしてあげたいという思いで、暗くなってからも最後まで除雪して下さったのだと思うと、その気持ちが有り難く、心の中で合掌いたしました。

当たり前ではない日常生活

境内に降り積もった雪

大雪で孤立する市町村が相次ぐ中、法徳寺も5日間の孤立生活を強いられ、6日目にして漸く表通りに出られましたが、5日間の孤立生活を通して、いつでも自由に出入り出来る事の有り難さを痛感いたしました。
法徳寺は停電もせず、食料もある程度備蓄されていたので、その面で困る事はありませんでしたが、いつでも自由に買い物に行けたり、車で出かけたり、私達にとって当たり前と思っていた事が、決して当たり前ではない事を、改めて思い知らされた5日間でした。
停電したり、断水したり、長期の孤立生活を余儀なくされていた方々の不自由さ、不便さを思うと、5日間で出入りできるようになった事を素直には喜べませんが、停電と聞いて思い出すのは、東日本大震災の時に実行された計画停電です。
あの時は、御同行のお一人が御奉納して下さった発電機のお蔭で、不自由なりにも全く電気が使えない状況に陥る事はありませんでしたが、東電管内には、蝋燭の炎の中で食事を余儀なくされたり、暖房のない中で寒い思いをされたお方も大勢おられました。
多くの企業が操業停止や操業時間の短縮を余儀なくされ、経済にも大きな影響を及ぼしましたが、未曽有の大震災と原発事故によって、すべての原発が止まったため、やむを得ない計画停電だったと言えましょう。
あの計画停電によって再認識されられたのは、私たちの生活が、電気がなければ何も出来なくなっているという現実でした。
いつでも自由に電気が使えるお蔭で、スイッチを押せば、電気炊飯器が自動でご飯を炊いてくれますし、電子レンジが冷たいものを温めてくれます。
タイマーをセットしておけば、自動的にお風呂にお湯が溜まり、終われば自動的に止めてくれます。
エアコンのスイッチを入れれば、暑い夏は涼しい部屋で、寒い冬は温かい部屋で快適に過ごせますし、冷蔵庫に食材を入れておけば、冷凍保存してくれます。
要するに、電気が来るのも当たり前、水道が来るのも当たり前、ガスが来るのも当たり前、何もかもが当たり前の生活にどっぷり浸かって、何不自由なく暮らしているのが、今の私たちなのです。
仏教では、万人が願う理想郷を「極楽浄土」と言いますが、現代人の暮らし振りは、ご先祖の目から見れば、まさに極楽浄土そのものと言っていいでしょう。
1983年(昭和58年)、NHKで放映されて話題になり、何度も再放送されている連続テレビ小説「おしん」をご覧になったお方も大勢いると思いますが、雪の降り積もる中、何十分もかけて川の水を汲みに行き、あかぎれの出来た手で重い桶を持って帰ってくるおしんの姿を見て胸が熱くなったのを今でも思い出します。
あの光景が、物の豊かな時代に生まれた今の若者の眼に、どう映っているのかわかりませんが、あの当時は、それが当たり前でした。
今の私達の生活を見て、「おしん」と同時代を生きた人々は何と言うでしょうか?
恐らく、「あなた達は幸せだよね。こんな極楽のような生活が出来て」という言葉が返ってくるのではないでしょうか。
にも拘らず、私達は、いまの生活を極楽とは感じていないのです。それどころか、「もっと便利に、もっと豊かに、もっと快適に」と、その欲望は止まるところを知りません。
何故でしょうか?
答えは明白です。要するに、誰もが、今の生活を当たり前だと考えているからです。
私たちが、現代文明の恩恵を存分に享受していることは間違いなく、このような快適で夢のような生活環境を当たり前だと思うのは、豊かさと贅沢をはき違えている何よりの証と言えましょう。
そのはき違えを木端微塵に打ち砕き、「当たり前ではない」という現実を目の当たりにさせてくれたのが、あの阪神大震災や東日本大震災であり、今回の大雪被害ではないかと思います。

天災は忘れた頃にやってくる

境内から入口方面を望む

よく「天災は忘れた頃にやってくる」と言われますが、この言葉は、天災の恐ろしさを忘れている私達を戒める言葉だと解釈されています。
しかし、「天災は忘れた頃にやってくる」とは、その恐ろしさを忘れた頃に天災がやってくるという意味ではなく、全てが当たり前ではなく、「有り難き」事であるという感謝の心を忘れた頃に天災が降りかかり、不自由な生活を強いられて初めて今まで当たり前だと思っていた事が決して当たり前ではない事に気付かされるという意味ではないかと思います。
阪神大震災や東日本大震災によって、ライフラインがすべて破壊され、電気も水道もガスも何もかも使えなくなって初めて私達は、今まで当たり前のように使っていた電気も水道もガスも、決して当たり前に使えるものではなかった事に気付かされたのです。
「電気、ガス、水道の使用料を支払っているのだから、使えて当然ではないか」と言われるかも知れませんが、たとえそうであったとしても、各家庭でいつでも自由に使えるのは、目に見えない所で懸命に保守点検をして下さっている多くの人々がいるお陰であり、いくら利用料を支払っていても、その陰のご苦労がなければ、一日たりとも自由に使う事は出来ないのです。
要するに、電気が来るのも当たり前ではなく、蛇口をひねればすぐに水が飲めるのも当たり前ではなく、ガスが来るのも当たり前ではなく、何もかもが「有り難き事」なのです。
電気やガスや水道を自分で作れる筈もなく、誰かが作って下さったものを、お金を払って買っているに過ぎない私達が、「使えて当然だ」と、権利だけを主張して、作って下さっている方々の御苦労を知らなければ、感謝の心を忘れた人間のエゴだけがまかり通る世の中になり、必ずや再び天災の洗礼を受けなければならなくなるでしょう。
全てが当たり前であり、当然の権利であるかの如く錯覚し、「有り難き事」「有り得ない事」という感謝の心を失くしてしまった私達の心の眼を目覚めさせてくれるのが、感謝の心を忘れた頃にやってくる天災という名の天地の慈悲なのです。
「天災は忘れた頃にやってくる」とは、感謝の心を忘れてはならないという私達に対する戒めなのです。
私たちの目は、前にしかついていませんから、前しか見えませんが、前ばかり向いて、権利だけを主張していては、物事の真相は見えてきません。
時々後ろを振り返って、反省すべきところは反省し、改めるべきところは改め、感謝すべきところは感謝する事によって、初めて未来に向けた確かな一歩が踏み出せるのです。

今年も一年ありがとう

ダイヤモンド富士

御法歌(みのりうた)『頼め彼岸へ法(のり)のふね』の中に、
  朝日に感謝は するけれど
    沈む夕陽に 知らぬ顔
    今日も一日 ありがとう
という歌がありますが、この歌には、私達が忘れてはならない大切な教えが説かれています。
日本人は初日の出を拝むのがとても好きな国民で、初日の出を拝む為に山へ登る人が大勢います。
法徳寺のある山梨には、富士山頂から初日の出が昇る「ダイヤモンド富士」を拝める撮影ポイントがあり、全国から大勢の方々が、ダイヤモンド富士の初日の出を拝みにやって来られます。
初日の出を拝ませていただけるのは、日本が平和であるからこそであり、日本人の一人として平和の尊さ、有り難さを痛感します。
それだけに、一人でも多くの皆さんに初日の出を拝みながら、平和の有り難さを噛みしめて欲しいと願わずにはいられませんが、元旦のテレビ画面には、大勢の人々が、寒い中を、ダイヤモンド富士を撮影する為にじっとシャッターチャンスを待っている姿や、富士山頂から昇る初日の出に向かって、両手を振り上げながらバンザイをしている光景が映し出されます。
何とも微笑ましい光景ですが、その一方で、得も言われぬ寂しい気持ちに襲われるのも事実です。
何故なら、初日の出を拝む人は大勢いても、その前日(大晦日)の西の空に沈む一年最後の夕陽を見送りながら、「一年間、有り難うございました。」と感謝の合掌をしている人の姿を、余り見た事がないからです。
また、そのような光景がテレビに映し出されているのを見た事もありません。
おめでたい初日の出をいち早く拝みたいという気持ちはよくわかりますし、初日の出を拝む人々をテレビに映して多くの人々に伝えたいというテレビ局の思いもわからないではありませんが、昇ってくる初日の出は、一年間そのお役目を果たして西の空に沈んでいった大晦日の夕陽の生まれ変わりなのです。
正月準備の忙しさや、初日の出を拝む事に心が奪われて、大晦日の夕陽の事などすっかり忘れてしまっているのかも知れませんが、多くの人が、沈む夕陽への感謝を忘れて、昇る朝日だけを愛でている光景を見る度に、私は、「これからお役目を果たすために昇ってくる初日の出に願いをかけるのと、お役目を果たし終えて沈んでいく大晦日の夕陽に感謝の祈りを捧げるのと、どちらが大切なのだろう」と思わずにはいられないのです。
物事には全て始まりと終わりがあります。
昇った朝日は必ず西の空に沈み、生まれたものは必ず死を迎えます。
しかし、それで終わりではなく、生まれ変わって帰ってくるのです。
これが、永遠の昔から変わる事のないこの世の真理(天地の決まり)であり、人間を含めた森羅万象全てが、この真理の中で生死を繰り返しているのです。
この地球でさえ、数十億年後には消滅すると言われていますが、地球もオギャーと生まれた一個の生命体である以上、最後があるのは当然です。
太陽にも死があり、いつか消えてなる運命にありますが、消えて終わりではありません。
また別の新たな太陽や地球が、この広大な宇宙のどこかに産声をあげるのです。
古い命が消えたら、別のところで新しい命が生まれる。これが、この大宇宙で日々刻々と繰り広げられている壮大な生命の誕生と消滅のドラマです。
いまここにいる私も、そして、これを読んで下さっている皆さんも、今は間違いなく生きていますが、あと百年もすれば、間違いなく今地球上に生きている殆どの人間は亡くなり、新しい世代にそっくり変わっている筈です。
宇宙の命の営みとは、何と気宇壮大なものでしょうか。
大宇宙に満ち満ちている限りなき叡智と巨大なエネルギーの前には、人間の浅はかな知恵や愚かな計らいなど、取るに足りないものである事を、いつも思い知らされます。
赤ちゃんが産まれれば、誰もが「かわいいね!」と言って、顔をほころばせますが、去ってゆくもの、死んでゆくもの、滅びてゆくものには、誰も目を向けようとはしません。
生まれたものは必ず老い、病み、死んでいきます。昇った太陽も必ず西の空に沈んでいきます。
しかし、自分もやがて沈む夕陽になる身であるにも拘わらず、人々の関心は、昇る朝日には向いても、沈む夕陽には向きません。
これでは、「沈む夕陽に知らぬ顔」と言われても仕方ないでしょう。

掃除機に感謝の祈り

以前、十年ほど使った掃除機が故障して動かなくなった事があります。
修理してもらおうと思い、電気屋さんに持っていったら、修理代が予想外に高かったので、思い切って新しい掃除機を買わせて頂く事にしました。
古い掃除機は、そのまま電気屋さんに引き取ってもらってもよかったのですが、毎日休む間もなく働いてくれた掃除機を、使えなくなったからと言って、そのまま捨てるのは余りにも不憫であり、申し訳ありません。それでは、私自身が、「沈む夕陽に知らぬ顔」になってしまいます。
そこで、家族みんなで、汚れや垢を綺麗に拭かせてもらい、般若心経を唱えて供養させて頂いたのです。
日本広しと言えども、掃除機に般若心経をあげて供養したのは、わが家くらいかもわかりませんが(笑)、掃除機に言葉があれば、こんな言葉が返ってきたのではないでしょうか?

「私は、十年前にこのお宅へ嫁いできて以来、毎日身を粉にして働いてきました。汚いゴミを腹いっぱい吸わされて、苦しい時も辛い時もありましたが、何一つ文句を言わずに働いてきました。もう身も心もボロボロです。でも、最後にこうして体を綺麗にぬぐって頂き、供養までして頂きました。今は、この家に嫁いで来て本当によかったと思っています。私の方こそ、本当にありがとうございました。生まれ変わったら、また必ずこの家に帰ってきますので、その時はまたよろしくお願いします」

因みに、わが家では、新しく電化製品を買った時も、般若心経をお唱えしてお迎えします。
電化製品だけでなく、家財道具でも何でも、御縁があって我が家に嫁いできてくれた大切な家族の一員ですから、「はじめまして、これからよろしくお願いします」という気持ちを込めて、心経をあげてお迎えさせて頂くのです。
勿論、最後のお別れをする時も、「ありがとうございました。ご縁があれば、また帰って来て下さい。それまで暫くのお別れですね」と言って、心経をあげて供養させて頂きます。
たかが掃除機と言われるかも知れませんが、掃除機にも掃除機の心があり、今まで生きてきた掃除機の人生があります。
僅か十年余りの短い人生であっても、工場で産声を挙げ、ご縁があってわが家に嫁いで来てくれた掃除機ですから、最後のお別れは悔いのないようにしてあげたいのです。

大切な心のお清め

これは何も掃除機に限ったことではありません。
例えば、新車を買った時には、古い車を下取りに出しますが、下取りに出す時、皆さんは、古い車をどのような思いで見送られるでしょうか?
今まで雨の日も風の日も、快適に乗せてもらった車ですから、 せめて下取りに出す時には、綺麗に洗わせて頂き、供養させて頂いた後、お礼の言葉をかけて見送らせて頂くのが、お世話になった車へのせめてものはなむけではないでしょうか。
その気持ちさえ忘れなければ、購入した新車の交通安全を祈る必要はありません。何故なら、その気持ちが、すでに交通安全に叶っているからです。
以心伝心ではありませんが、古い車への思いは、必ず新しい車にも伝わり、家族の安全を守ってくれる筈です。
新しい家を建てる時には、地鎮祭をして、土地を清め、工事の無事と家族の平穏を祈願しますが、古い家を壊す時はどうでしょうか?
恐らく、古い家屋のお清めをするお方は余りいないでしょう。
勿論、古い家屋のお清めと言っても、神社や寺院にお願いする必要はありません。
家族みんなで綺麗にお掃除させて頂いた後、今までのご苦労に感謝の誠を捧げれば、それがお清めとなります。
それでは物足りないと思えば、家の四方に、お塩とお酒を撒かせてお清めさせて頂けばよいでしょう。
大切な事は、家のお清めを通して、心のお清めをさせて頂くという事です。
それこそが、家をお清めする最大の目的と言っても過言ではありません。
ですから、古い家と新しい家の、どちらのお清めが大切かと言えば、今までお世話になった古い家のお清めの方が大切なのです。
以前、土地をお清めして新しい家を建てたら、病気や怪我ばかりしてよくないことが続くので、悪い霊が憑いているのではないかと心配して、相談に来られたお方がおられます。
私が、「家に霊が憑いているとか、先祖が祟っているとか、誰がそんな事を言うのですか。憑き物が憑いているという事は一切ありません。古い家を取り壊す時、今までのお礼を言って出て来られましたか?」とお聞きしたら、「いいえ、どうせ壊すからと思い、家財道具を運び出して、そのまま掃除もせずに出てきました」との事でした。
これでは、心のお清めが全く出来ていませんから、「沈む夕陽に知らぬ顔」となって、新しい家に引っ越しても、うまくいく筈がありません。
限りある人生を生きる上で何が大切なのかを、私たちは、もう一度肝に銘じておかなければなりません。

合掌

今年も一年ありがとう(2)
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