究極のエコ運動― 食べないものには箸をつけない (1)

一粒のお米も菩薩なり

昔から「農業は国の基、国の宝」と言われますが、稲穂がたわわに実る田園風景を見るといつも思い出すのは、師僧が口癖のように言っていた「一滴のお水は如来なり。一粒のお米は菩薩なり」という言葉と、菩薩様がおっしゃっておられた「食べないものには箸をつけてはいけない」という言葉です。

「一滴のお水は如来なり。一粒のお米は菩薩なり」とは、お水を頂く時には、如来を拝むような気持ちで頂き、お米を頂く時にも、菩薩を拝むような気持ちで頂きなさいという意味ですが、この言葉には、「一滴のお水にも一粒のお米にも、天地の恵みと、収穫した人々の大変なご苦労が込められているのだから、一滴のお水も一粒のお米も無駄にしてはいけない」という天地への畏敬の念と、収穫した人々への感謝の思いが込められています。

私達が毎日食前に唱える「頂きます」という言葉にも、食後に唱える「ご馳走様でした」という言葉にも、同じ思いが込められている事は、言うまでもありません。

「頂きます」とは、文字通り「多くの皆さんのご苦労に感謝し、頭の頂きに持ち上げる如く敬って頂きます」という意味であり、「ご馳走様でした」とは、食事を用意する為に、走り回るほどのご苦労をおかけした皆様に感謝いたします。有り難うございました」という意味です。

また、「食べないものには箸をつけてはいけない」という言葉の根底にも、天地の恵みと、食べ物を作って下さった全ての人々に対する畏敬と感謝の念が、脈々と流れています。

菩薩様は常々「出された食物は、すべて頂くのが礼儀だが、食べられないと思ったら、別にとっておき、決して箸をつけてはいけない。箸をつけなければ、後で誰かが食べて下さるかも知れないが、一度箸をつければ、そのまま捨てなければならない。あちこちに箸をつけて、食い散らかすのは、一番失礼な食べ方で、決してしてはならない」とおっしゃっておられましたが、私の体験をお話しますと、紀州高野山の宿坊でお手伝いをしていた時、宿泊客が食べたお膳を下げ、その中で箸をつけていないものがあれば、お手伝いの人たちみんなで一緒に頂いたものです。

しかし、少しでも箸をつけてあれば、まだ食べられる部分の大半が残っていても、そのまま捨てなければならず、「勿体ない」と思いながら捨てていた時の虚しさは、今でも忘れられません。

だからこそ、「食べないものには箸をつけてはいけない」という言葉の中に、究極のエコを見る思いがするのかも知れませんが、皆さんは、この「勿体ない」という言葉に、全世界を変えるほどのスーパーパワーが秘められているのをご存知でしょうか?

「勿体ない」という言葉を持つ日本人の責任

ワンガリ・マータイさん

アフリカ系女性で初めてノーベル平和賞を受賞され、ケニヤ共和国の環境副大臣をしておられたワンガリ・マータイさんは、リデュース(過剰生産の削減)、リユース(再利用)、リサイクル(再生利用)という「3つのR」を唱えて、環境保護に取り組んでおられましたが、初めて日本に来られた時に出会われたのが、この「勿体ない」という日本語でした。

マータイさんが提唱する「3つのR」の意味が、「勿体ない」の一語に込められている事を知ったマータイさんは非常に感激され、是非この言葉を世界中の人々に伝えたいと、各国語に翻訳しようとしたところ、この「3つのR」を一つの言葉で表現出来る言葉が、どこの国にもなかったそうです。

そこで、マータイさんは、「勿体ない」をそのまま「MOTTAINAI」という英語に置き換え、「3つのR」を象徴する世界共通の言葉として、世界中の人々に広めながら、植林と環境保護活動に取り組んでおられましたが、残念ながら、平成23年(2011年)9月25日、ガンのため、ケニアの首都ナイロビの病院で死去されました。心より、ご冥福をお祈りしたいと思います。

「世界で最も贅沢な国民は日本人だ」と言われるように、「勿体ない」というどこの国にもない言葉を与えられている日本人が、いま最も忘れているのが、この言葉に込められている畏敬の念と感謝の心ではないでしょうか。

東日本大震災は、電気や水道やガスに囲まれた暮らしがいかに有り難いかを教えてくれましたが、二万人近い人々の命と、数知れぬ人々の生活基盤のすべてを奪い去った大震災の体験を、「元の木阿弥」に終わらせないためにも、今までのような、「有れば有るだけ作ればいい。残ったら捨てればいい」というような浪費と贅沢に走る生活スタイルではなく、「必要なだけ作らせて頂き、食べないものには箸をつけない感謝と知足の心」を、生活の隅々まで浸透させていかなければならないのではないかと思います。それが、「勿体ない」という世界のどこにもない言葉を与えられた日本人の責任ではないかと思うのです。

究極のエコ運動

最近、エコに対する関心が高まり、環境に優しい太陽光発電、電気自動車などのエコカー、LED電球などが脚光を浴びていますが、私達は、もっと身近にある究極のエコに気付くべきではないでしょうか。しかも、そのエコ運動は、一切お金がかからず、無駄を省くだけでなく、お金まで生み出してくれるのです。

それは、「食べないものには箸をつけない」という、たったそれだけで出来るエコ運動です。

飽食の時代と言われて久しいわが国ですが、巷を見れば、あちらでも、こちらでも、残った多くの残飯が捨てられ、大量のゴミとなっています。これほどエコに反している行為は他にありません。

「食べないものには箸をつけない」という、たったこれだけの事が実行出来れば、どれだけのゴミが減り、人々の懐を豊かにし、無駄を失くす事が出来るでしょう。

いま全世界には、地球温暖化と環境問題、増え続ける人口問題、南北間の格差問題、貧困問題と貧困からくる内戦やテロ、難民問題、食糧難による飢餓問題、エネルギー問題、不景気対策、失業問題、自殺問題をはじめ、ありとあらゆる難問が山積していますが、私たちは、最も簡単な解決策が、こんなにも身近にある事に気付かなければなりません。

「大げさな」と笑われるかも知れませんが、「食べないものには箸をつけない」という、たったこれだけの行いを実行するだけで、山積する難問の大半は解決するのではないかとさえ思います。勿論、全ての人々が、実践する事が大前提ですが…。

何故なら、食べるという行為ほど、人間にとって最も身近で、最も切実で、生きていく上で欠かせない行為は他にないからです。誰もが毎日必ず実行するのが、食べるという行為であり、しかも、それが毎日、三度ずつ必ず繰り返されていくのです。

箸をつけただけで食べ残し、無駄になっている食物の量を想像すれば、究極のエコとは何かが見えてきます。

もし全ての人々が、この最も身近で、いつでも、どこでも、誰でも簡単に実行出来る「食べないものには箸をつけない」というエコ運動を実行する事が出来れば、いま私達の前に立ちはだかっている諸問題など、一挙に解決するのではないでしょうか。

何故なら、一事が万事で、「食べないものには箸をつけない」というエコ運動が人々の生活に浸透してゆけば、その意識の変化は、食生活に留まらず、ライフスタイルそのものを根底から変えてしまう可能性を秘めているからです。

私達の生活には、無駄なもの、余分なもの、過剰なものがあふれていますが、「食べないものには箸をつけない」という意識が生活全般に波及してゆけば、「無駄なものは身に着けない。余分なものは買わない。余分には作らない」というように、無駄があふれる生活そのものを、エコ生活に変えてゆけるのです。

究極のエコ運動― 食べないものには箸をつけない (2)