日本文化の底流にある無常の教え

日本文化の底流にある「もったいない」精神は、私たちの日常生活の隅々にまで行き渡っています。
例えば、着なくなった古い着物を仕立て直して服を作ったり、短くなった鉛筆を鉛筆サックに挿して最後まで使ったりするのは、まさに「もったいない」精神の現れと言えましょう。
包む時は広げ、使わなくなったら折り畳んでどこへでも持っていける伸縮自在の風呂敷も、「もったいない」精神が生み出した世界に誇るべき日本文化そのものです。
着物は、太った方でも痩せた方でも着られますが、洋服ではそうはいきません。靴は、サイズが決まっていますから、足のサイズが違えば履けませんが、下駄や草履なら、大きい足の人でも、小さい足の人でも履けます。
わが国古来の襖も、非常に柔軟性に富み、小さく使う時は襖を入れ、広く使う時は襖を外して使うという、まさに日本人の「もったいない」精神が生み出した間仕切りの一つです。個室中心の欧米式の部屋は、プライバシーは守れるかも知れませんが、融通性においては日本の襖に到底敵いません。
食べる時に使う箸、寝る時に使う布団など、例を挙げればきりがありませんが、これらを見れば、わが国の衣食住の隅々に、「もったいない」精神が行き渡っている事がわかります。

この「もったいない」精神は、大自然の摂理に従って生きてきた日本人が、大自然から学び取った叡智であり、世界に誇るべき日本文化そのものと言えましょうが、だからこそ、これからの世界をリードしていくのは、貪りの心に支配された文化ではなく、「もったいない」「少欲知足」の精神に支えられ、大自然の摂理に育まれた日本文化以外にはありません。

この「もったいない」精神を育んだのは、四季折々の美しさに富む日本の大自然である事は言うまでもありませんが、同時に日本の大地に深く根をおろした仏教の教えである事も忘れてはなりません。もし仏教が日本の大地に根付いていなければ、「もったいない」精神は、ここまで深く日本人の魂に刻まれる事はなかったでしょう。何故なら、「もったいない」という心は、全ての物が限りある存在であるという仏教の諸行無常の教えから生まれてくる心だからです。

私達人間は勿論のこと、この地球でさえ、命に限りがあります。限りがあるという事は、永遠なるものは存在しないという事です。全てが移り変わり、限りある存在に過ぎないという無常の教えが、日本人の心にしっかり根付いたからこそ、限りある命を大切にし、全ての物を無駄にしてはいけないという「もったいない」精神が育まれたのです。限りがあるからこそ、全ての命が、みなかけがえのない存在なのです。私の替わりも、皆さんの替わりも居ないという道理がわかれば、すべての命が尊く、すべての命が「もったいない」事もわかってきます。